この予習は必須!【鎌倉殿の13人】北条泰時の生涯と実績をたどる。御成敗式目だけじゃないぞ:前編:2ページ目
義時の後継者となり、新「鎌倉殿の13人」を結成
ここまででも大活躍の泰時ですが、彼の人生はまだまだこれから。
貞応3年(1224年)6月13日に父の義時が急死したため鎌倉へ戻った泰時は、継母である伊賀の方(いがのかた)が生んだ異母弟・北条政村(まさむら)との後継者争いに巻き込まれます。
後世に言う「伊賀氏の変」は北条政子(演:小池栄子)と大江広元(演:栗原英雄)の協議により、泰時と時房を執権とすることで決着。
伊賀の方は幽閉されたものの、政村や彼を担いだ疑いのある三浦義村は不問に処されるなど、処分は甘めだったようです(政村は第7代執権に就任)。
(そのため、政子の狙いは単に伊賀の方やその一族の勢力を削ぐことであったとの説もあります)
かくして北条の家督を継いだ泰時は、亡き父の遺領を弟や妹たちに配分。その時、恨みが出ないよう自分の分け前を少なくしました。
心配した政子が「もっと多く取ってはどうか(勢力基盤を固めないと、また兄弟間で争いが起きるかも知れないから)」と勧めますが、泰時は「自分は執権だから」と気持ちだけ受け取ったと言います。
大きな権力を持つからこそ私欲を追及してはならず、誰よりも公正でなければ人はついて来ないことをよく理解していたのでしょう。
嘉禄元年(1225年)6月10日に大江広元、7月11日に政子が相次いで亡くなると、泰時は難局を乗り切るため頼朝から政子にいたるまでの専制政治から合議政治を提唱。
以前も「鎌倉殿の13人」こと十三人の宿老による合議制を模索していたものの、宿老たちの寿命や血で血を洗う権力抗争により、あっけなく瓦解したのは周知のとおり。
今度は執権と連署(れんしょ。署名を連ねる副執権)を取りまとめ役に、11名の評定衆(ひょうじょうしゅう)と合わせて13名の合議制を再編……こちらも「鎌倉殿の13人」ですね。
【新「鎌倉殿の13人」結成時メンバー】
執権・北条泰時
連署・北条時房
後藤基綱(ごとう もとつな)
斎藤長定(さいとう さがさだ)
佐藤業時(さとう なりとき)
中条家長(ちゅうじょう いえなが)
中原師員(なかはら もろかず)
二階堂行村(にかいどう ゆきむら。13人の一・二階堂行政の子)
二階堂行盛(にかいどう ゆきもり。行村の甥)
三浦義村(みうら よしむら)
三善倫重(みよし みちしげ。矢野倫重)
三善康連(やすつら。太田康連。13人の一・三善康信の子)
三善康俊(やすとし。町野康俊。康連の兄)※評定衆11名は50音順。
※一説にはこの時に初めて「執権」という言葉が使われ、初代の北条時政(演:坂東彌十郎)と義時は『吾妻鏡』の編纂時にさかのぼって執権扱いにされたとか。
新体制に生まれ変わったことを示すかのように、将軍御所をこれまでの大蔵(おおくら。清泉小学校敷地)から宇都宮辻子(うつのみやずし。若宮大路の東側)へと移転します。
また、京都から迎えていた三寅(みとら。8歳)が元服、藤原頼経(よりつね)と改名。明けて嘉禄2年(1226年)の征夷大将軍宣下をもって、晴れて第4代「鎌倉殿」に。
この頼経は頼朝の妹である坊門姫(ぼうもんひめ)の孫に当たり、血統的には遠縁ながら源氏の一員と言えます。
第3代・源実朝(演:柿澤勇人)が建保7年(1219年)に暗殺されてから7年の空位を乗り越え、再び鎌倉に大義名分が復活したのでした。
ただし、これからの鎌倉殿はあくまでお飾りに過ぎず、幕政の実権は執権・連署をはじめ評定衆によって握られています。これが武士の武士による武士のための政治のはじまり、まさに「武士の世」の幕開けとも言えるでしょう。
※参考文献:
- 上横手雅敬『北条泰時』吉川弘文館、1988年10月
- 坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏 義時はいかに朝廷を乗り越えたか』NHK出版、2021年9月
- 高橋慎一朗『武士の掟 「道」をめぐる鎌倉・戦国武士たちのもうひとつの戦い』新人物往来社、2012年2月
- 永井晋『鎌倉幕府の転換点 『吾妻鏡』を読みなおす』NHKブックス、2000年12月
- 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月