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「鎌倉殿の13人」佐藤浩市 演じる上総介広常の最期は近い!?第15回放送「足固めの儀式」を予習

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『愚管抄』が描く広常の最期

では、史実の広常がどんな最期を遂げたのか、史料をひもといてみましょう。

広常が亡くなったのは寿永2年(1183年)12月22日。この年は鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』がの記述がほとんど抜け落ちているため、慈円の日記『愚管抄』から引用します。

ちなみに慈円(じえん)は九条兼実(演:田中直樹)の弟で、後に天台座主(てんだいざす。比叡山延暦寺の住職で、天台宗の総責任者)として活躍。大河ドラマには登場するでしょうか。

介の八郎広常と申し候し者は東国のノ勢人。頼朝打ち出で候いて君の御敵退け候はんとし候いし初めは、広常を召し取り手、勢にしてこそかくも打ちえて候しかば、功有る者にて候しかど、思い廻らし候えば、なんじょう朝家の事をのみ見苦しく思うぞ、ただ坂東にかくてあらんに、誰かは引働かさんなど申して、謀反心の者にて候いしかば、係る者を郎従に持ちて候はば、頼朝まで冥加候はじと思いて、失い候にきとこそ申しける。その介八郎を梶原景時をして討たせたる事、景時が功名と云うばかりなり。双六を打ちて、さりげなしにて盤を越えて、やがて首を掻き切りて持って来たりける。誠しからぬ程の事なり。細かに申さば、去る事は僻事もあればこれにて足りぬべし。この奏聞の様子誠ならば、返す返すも朝家の宝なりける者かな。

※『愚管抄』巻六より

【意訳】上総介八郎広常と申す者は東国の強豪。頼朝が挙兵して平家を討伐できたのは、広常の功績大なりと言える。
しかし広常は「なぜ朝廷など気にするのか。坂東で独立すれば誰も手出し出来ぬ」などと朝敵に対して謀叛の心を持っている。
そんな「広常を従えていたら、頼朝まで謀叛を疑われてしまうので、粛清すべき」と頼朝に伝えた。そこで頼朝は梶原景時に広常を討たせた。まことに梶原の大手柄である。
双六を打っている最中、一瞬の隙を衝いて一刀に広常を斬り捨て、その首級を頼朝に献上したという。
これらの報告が事実であるなら、梶原はほんとうに朝廷の宝と言うべき人材である。

……要するに「広常は強いが、朝廷に対して反抗的である。なので今後の出世を考えたら粛清すべきとの意見に従い、頼朝は景時に命じて広常を暗殺させた」という流れになります。

3ページ目 残虐さと、ゆるさを併せ持つ坂東武者

 

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