【秘話 鎌倉殿の13人】源頼朝最後の男系男子・貞暁(じょうぎょう)の波乱に満ちた人生と北条政子との因縁:その3:2ページ目
政子の頼家遺児たちへの不信と心境の変化
北条政子の初上洛をきっかけに高野山一心谷に転居した貞暁は、この地で世俗を離れ、行勝上人のもと一心不乱に仏道修行を続けていました。さらに、上人とともに、源平合戦で荒廃した高野山の堂塔伽藍の復興に務めていたのです。
そして、1217(建保)年5月7日、上人が87歳でこの世を去ると、貞暁は一心院を引き継ぎ、第二代院主となります。
この間、鎌倉では相変わらず、北条氏と有力御家人の対立が生じていました。1213(建暦3)年2月、信濃源氏の御家人泉親衡(いずみちかひら)が頼家の三男栄実(えいじつ・14歳)を擁立し、北条義時打倒の陰謀を画策します。
しかし、陰謀は密告され親衡は逐電、栄実は自害に追い込まれました。さらに、この事件に和田一族が関わっていたとされ、初代侍所別当を務めた和田義盛をはじめとする和田一族は滅び去ったのです。
そうした不安定な状況の中、将軍実朝はますます和歌にのめり込んでいきます。生来の脆弱さもあってか正室信子との間には子供が誕生する気配はありませんでした。
この頃になると政子には大きな心境の変化が起こっていたのではないでしょうか。それは、将軍職には北条の血は必要としない。ただし幕府は北条家のみで支えていくという固い決意でした。
政子は実朝と後鳥羽上皇の良好な関係から、実朝に跡継ぎができない場合は後鳥羽院の皇子を将軍として迎えようと画策していたのです。
こうした政子の心境の変化は、栄実の謀反発覚はもちろん、公暁がいつまでも剃髪せず、その本心が掴めなかったことも原因であったと思われます。
政子:頼家の子たちに将軍を継がせようとは思わぬ。将軍には高貴な血を引く者を就かせ、北条が代々の執権となって盛り立てていくまでよ。
北条家の血にこだわる政子の凄まじいばかりの執念は、時代の流れとともに変化していったのです。