日常的に着物を着ていた日本人が何故洋服を着るようになったのか、明治時代の「引札見本帖」に探る【中編】:3ページ目
女学生の服装の変化
明治時代も中期頃になると、人々が座ったり立ったりという動作が生活の中に増えてきます。その主たるものとして学校や公的職業に就く人々の“椅子と机を使った生活”が挙げられます。
着物姿で椅子と机を使うのに一番困るのは“裾さばき”です。
椅子から立ち上がる・座るという動作はどうしても裾が乱れます。そこで学校でも“袴”を着用することを薦めるようになります。
その袴は“女袴”と呼ばれ、男子の袴と違って股に仕切りのないスカート状の袴で、背中に腰板はなく色は主に“海老茶”という色でした。
この女袴は“下田歌子”という女性が考案したものです。
下田歌子は武家の娘で18歳の時に女官に抜擢され、その人格と優秀さから昭憲皇太后(明治天皇の皇后)の寵愛を受け宮廷で和歌を教えていました。
その後、明治天皇の子女達を皇室の伝統を重んじつつ、しかし海外の賓客と接しても恥ずかしくない、時代に適応した皇女として教育するという使命を受け、欧米教育視察のためにイギリスへと渡航します。
歌子は帰国後、「日本が一流の大国と成らん為には大衆女子教育こそ必要」との意思のもとに、女性教育へ人生を捧げます。
そのようにして登場した女袴は、裾の乱れを気にすることなく袴姿で颯爽と行動する若々しい女学生を生み出し、その姿は新しい時代を象徴するものとなったのです。
上掲の引札に描かれてる自転車に乗っている袴姿の女学生は、ヒールのある靴を履いています。ここにも和洋折衷が見てとれます。
このような女学生は“ハイカラさん”と呼ばれました。これは女学生を批判的に見る言葉でもあったのです。『生意気』『おてんば』と呼ばれ、女性は着物でしとやかであるべきという考えがまだ根強くありました。