手洗いをしっかりしよう!Japaaan

戦国最強の女武将!女戦士・妙印尼輝子(みょういんにてるこ)に豊臣秀吉も感服!?

戦国最強の女武将!女戦士・妙印尼輝子(みょういんにてるこ)に豊臣秀吉も感服!?:3ページ目

小田原征伐での骨肉の争い

1590(天正18)年、天下統一に向けた豊臣秀吉の小田原征伐がいよいよ始まります。この時、小田原城にいた国繁は、北条側について戦うことになりました。

ではここで、輝子はどうしたかというと……。なんと、彼女は当時10歳だった孫の由良貞繁を領主に立てて、その後見人として豊臣方へついたのです。今や「天下人」である豊臣方についた方が、由良家の存続は確実と見たのでしょう。

国繁とは、まさに骨肉の戦いの構図になったのでした。「お家」の存続のために実の息子と兵刃を交えることになろうとは骨肉の戦いにして皮肉な展開とはこれ如何に。

彼女は、自ら(!)軍隊を率いて前田利家・上杉景勝の北国軍に参加。松井田城の城主である大道寺政繁を攻めます。

そして豊臣軍が勝利すると、輝子は前田利家に秀吉への口利きを頼みます。かくして輝子は、秀吉へ直接、由良家の存続と国繁の救済を願い出る機会を与えられました。輝子77歳のことです。

その結果、北条川について戦った国繁は、死罪を免れて常陸牛久(現茨城県牛久市)5000石への国替という軽い裁きで済んでいます。

前田利家とは良好な関係だったようで、国繁の赦免と由良家の存続は、利家の尽力によるところもあったようです。

輝子が、この牛久の地で亡くなったのは1594(文禄3)年のこと。81歳でした。

ちなみにあの甲斐姫は、輝子の孫にあたります。この祖母にしてあの孫あり、でしょうか。

参考資料

 

RELATED 関連する記事