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知れば時代劇がもっと楽しく!江戸時代の処罰「改易」「減封」「転封」の意味や大名の実例を詳しく解説

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「戦後処理」「反乱分子の排除」としての改易処分

大名の改易処分が最初に行われたのは、関ヶ原の合戦のいわば「戦後処理」の時です。単純化して言えば、勝者である徳川家康が、敵方の西軍に味方した大名たちを改易処分し、自分に味方した東軍大名たちに、褒美として領地を与えたのです。

改易処分を受けた主な武将としては、石田三成・小西行長(斬首)、宇喜多秀家(遠流)、長宗我部盛親(蟄居)などです。

その後、大坂の役で豊臣家が滅亡して戦乱がなくなると、幕府は全国の大名(特に外様大名)の統制方法について頭を悩ませるようになりました。

まず、もともと豊臣家の家臣で、関ヶ原の合戦で東軍についた大名たちをどうするか。江戸時代初期には、こうした外様大名もまだ大きな領地と力を持っており、いかに反乱を起こさせないようにするかが問題でした。

そこで幕府は、次のような大名を改易の対象とします。すなわち、武家諸法度に違反した大名、世継がいないまま当主が死去し、死去直前に急きょ養子(末期養子)を取った大名、お家騒動を起こしたり領民の反乱を招くなどして、統治能力なしと見なした大名などです。

こうして徳川幕府は、大名たちを統制していく一方で、多くの大名を取りつぶして反乱の芽を摘んでいきました。

中には、謂れのない理由で理不尽い改易処分を受けたケースもあります。その代表が福島正則です。

彼は、台風により破壊された広島城の石垣などを、幕府からの正式な許可を得ずに修繕しました。雨漏りの修繕など問題はないはずなのですが、これが武家諸法度違反とされて改易処分を受けています。

このケースは、幕府が正則の力を恐れて、わざと許可を出すのを遅らせて罠にかけたともいわれています。

3ページ目 ルールの調整、そして「減封」「転封」

 

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