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知れば時代劇がもっと楽しく!江戸時代の処罰「改易」「減封」「転封」の意味や大名の実例を詳しく解説

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ルールの調整、そして「減封」「転封」

こうして多くの大名が改易処分となり、幕府の権力は絶対的なものになっていきます。

一方、改易によって職を失い、生活に窮した浪人たちが大量に発生し、徐々に政情不安が高まっていきました。そして1651(慶安4)年に発生したのが由井正雪の乱です。

これは、軍学者の由井正雪が、幕府に対して不平不満をもつ浪人たちを集めて倒幕計画を立てたものです。

この陰謀は事前に発覚し未遂に終わりますが、これを受けて幕府も「やりすぎた」と、事の重大さに気付きました。

そこでこれまでの方針を改めて、末期養子を条件付きで認めるなど柔軟な対応を取るようになったのです。江戸時代中期以降になると、大名の改易件数は減っていきました。

改易のほか、大名へ下された罰則には「減封(げんぽう)」「転封(てんぽう)」などがあります。

減封は、領地などの一部を削減する処分で、改易よりは軽い処罰です。これの代表としては、関ケ原の合戦後の上杉景勝毛利輝元などが挙げられます。

また、転封はその大名の領地を別の場所に移すことを指します。もともとは、江戸時代初期に外様大名を江戸から離れた位置に移動させたり、反対に徳川家に近しい親藩・譜代大名を江戸近辺に移動させる目的で実施されたもので、転封は必ずしも処罰ではありませんでした。

実際、関ヶ原合戦で徳川方についた外様大名たちは領地を加増された上で「転封」となっています。例えば蒲生秀行は42万石の加増で会津へ、池田輝政は36万8千石の加増で姫路へ転封されました。

徳川幕府は、このように改易・減封・転封などのルールを駆使して、敵対しそうな大名の力を削ぎ、さらに領地の分配をうまく行うことによって統治の基盤を固めました。これはまさに「完成された封建制度」と言えるものです。

こうして徳川幕府は、応仁の乱の時代からずっと続いてきた、血で血を洗う乱世にケリをつけました。このような形の、いわば「戦後処理」をきっちり行うことで、これから200年続くことになる天下泰平の世を作り上げていったのです。

参考資料

 

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