突然の出家に嘆き悲しむ道長…藤原道長の三男・藤原顕信が出家した理由とは?【光る君へ】
日ごろは仕事やプライベートが充実していても、ふとした瞬間にすべてが虚しく思えてしまう経験は、誰もがあるのではないでしょうか。
どれほどの成功を収めて資産を蓄え、名声を勝ち取ったところで、人は必ず死んでしまいます。
そこで昔の人々は、仏道に帰依することで死と向き合い、生ある今を見直そうと志しました。
今回は藤原道長の三男・藤原顕信(あきのぶ)を紹介。果たして彼はどんな生涯をたどったのでしょうか。
蔵人頭に見込まれるも……
藤原顕信は正暦5年(994年)、道長と側室・源明子(めいし/あきらけいこ。高松殿)の間に誕生しました。
寛弘8年(1011年)10月に18歳で右馬頭(うまのかみ)となります。
そのまま順調に出世していくかと思いきや、同年12月19日にこんなことがありました。
三条天皇が顕信を蔵人頭(くろうどのとう)に任じようかと道長に打診したところ、道長はこれを断ったのです。
顕信は「不足職之者(識足らずの者)」で、分不相応に蔵人頭とすれば「衆人之謗(衆人のそしり)」を受けるからという理由でした。
息子の能力不足なんて、そんな事を気にする道長なの?
いつもみたいに権力ずくで押し通せばいいじゃないの……と思ってしまいますね。
恐らくこれは庶子(正室以外の子)を優遇したくない道長の思惑があったのでしょう。
逆に三条天皇は道長の嫡子(正室の子)と庶子の対立を知った上で、対抗させようと蔵人頭抜擢を考えたのかも知れません。
どうせ道長の身内を取り立てねばならないなら、少しでも取り込みやすい者の方が好都合。
しかし道長はその手に乗らず、顕信の蔵人頭任官を辞退したのではないでしょうか。
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