古くから死罪や晒し首の舞台となっていた処刑場「三条河原」に散った幕末の志士や戦国武将たち【前編】
京都を流れる鴨川に架かる三条大橋。この地域の川岸はかつて「三条河原」と呼ばれ、罪人の処刑や晒し首の舞台となった。
今回は、日本の長い歴史の中で三条河原に散った侍たちのエピソードをご紹介する。
三条河原が処刑場となった理由
三条河原が処刑場となった明確な理由はわかっていない。江戸期以前の日本では、罪人の処刑の際に全貌を広く公開することが一般的であり、古来から人々の往来が盛んであった三条河原周辺は罪人の見せしめに都合がよかったと考えられている。
また、室町時代の三条河原は遺体置き場としても利用されていたといわれ、そこから処刑場としても利用されるようになった可能性もある。
三条河原で処刑・晒し首となった代表的な人物
石川五右衛門
戦国時代に実在したといわれる盗賊。長らく実在が不明とされていたが、日本に滞在していた異国貿易商の資料に、石川五右衛門と三条河原における処刑の記述が確認された。
五右衛門は京都や大阪などで盗みを働き、部下も多数従える盗賊団の首領であった。
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処刑までの経緯は明らかになっていないが、山科言経の日記「言経卿記」や、林羅山の「豊臣秀吉譜」には、1594年の8月に母親や仲間と共に油で釜炙りにされたと記載が残る。
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