「荘園」は大規模な脱税システムだった!?平安貴族はいかにして私腹を肥やしたのか:3ページ目
荘園システムの崩壊から「領土願望」へ
貴族が私腹を肥やし、国の治安が悪化したので武士を雇って武装する。これは当然の流れで、これでめでたしめでたしとなりそうです。しかしそうもいきません。武士は武士で、「自分たちも土地が欲しい」という気持ちを持っていました。
なぜなら、武士はもともとは土地の管理者たちなのですが、自分の貴重な財産であるはずの土地を貴族に預けている以上は、収入が不安定なままなのです。彼ら武士たちは、本当は純粋な私有地が欲しいわけです。
そこで、武士は次第に武力をもって荘園の実効支配に乗り出します。軍事力を持たない貴族はその実効支配になすすべもなく、荘園からの収入は次第に減少します。
そこで貴族は武士と主従関係を結び、荘園支配を彼らに任せる代わりに一定の収入を自身に渡す「下地中分」というやり方を採用します。この支配形態を担うのが、後に鎌倉幕府を支えることになる「地頭」です。
このように、武士の時代になっても、何らかの権威や権力の傘の元でなんとか荘園制度は維持されていきました。しかし朝廷も幕府も力を失った戦国時代になると、平安貴族たちが脱税のために生み出したこの天才的なシステムも崩壊していきます。
こうして、武士の横領や農民の自立によって実効支配が進んだことで、荘園は目減りしていきます。そして豊臣秀吉による太閤検地でこの脱税システムの残滓は完全に否定され、終焉に至ったのです。
「荘園」は実は貴族や寺社による大規模な脱税システムでした。そのことを理解しておくと、鎌倉時代以降に武士が「土地」あるいは「領地」にやたらとこだわった理由や、豊臣秀吉が「太閤検地」を実施した理由もなんとなく見えてきますね。
参考資料
・誕生から崩壊まで一目で分かる「荘園」元塾講師が分かりやすく5分で解説 – Study-Z