殺人を懺悔するはずが…宣教師ザビエルによるキリスト教の布教を手助けした青年・ヤジロウとは?:2ページ目
2ページ目: 1 2
薩摩では、神学を修めたヤジロウは、日本人クリスチャン第1号として、ザビエルの通訳・案内役をする他、聖書や経典の翻訳にあたるなど、様々な面でザビエルの伝道活動を支えていました。
しかし、山口から堺を経由して京に入ると、町並みは戦乱によって荒廃し、朝廷や将軍の権威はすでに失墜していました。失意のうちに山口へ帰着していたザビエルは、1551年に日本を離れ、インドへ帰着。その翌年、中国での布教を目指しましたが、その途中で病死してしまいました。
一方、ザビエルの布教を支えたヤジロウは、インドへと向わず、十数年後に中国の寧波付近で、海賊に襲われて殺されてしまったとも伝えられていますが、詳細はよくわかっていません。
現在、ヤジロウの出身地である鹿児島県には、彼が身を潜めて宣教を続けていたとする伝承が残されており、ヤジロウの墓と伝わるものも残されています。また、梅北道夫氏によると、鹿児島県甑島のごくわずかな地域で信仰されていたクロ教が、ヤジロウの伝えた隠れキリシタン信仰だとされているようです。
ザビエル自身のキリスト教伝道自体は、見方によっては失敗に終わったかもしれません。ただ、ザビエルが日本を去った後、ポルトガル人のガスパル・ヴィエラ、ルイス・フロイスらが相次いで来日、1582(天正10)年頃になると、「キリシタン」と呼ばれたキリスト教の信者数は、肥前・肥後・壱岐や豊後、幾内を中心に急激に増えたのでした。
キリスト教世界と日本の橋渡しをしたヤジロウのことは、もっと知られてもよいのかもしれません。
【史 跡】
ヤジロウ」の墓(伝)
鹿児島県日置市伊集院町土橋
アクセス:県道206号沿い
参考
- 梅北 道夫『ザビエルを連れてきた男』(1993 新潮社)
- シュールハンマー、ヴィッキ編、河野純徳訳『聖フランシスコ・ザビエル全書簡〈1〉』(1994 東洋文庫)
- やなぎや けいこ『地の果てまで―聖フランシスコ・ザビエルの生涯』(2004 ドン・ポスコ社)
- ルイス・フロイス著 松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史〈6〉ザビエル来日と初期の布教活動―大友宗麟篇(1)』 (2000 中央公論社)
- 浅見 雅一『フランシスコ・ザビエル―東方布教に身をささげた宣教師』(2011 山川出版社)
ページ: 1 2