非業の死から復姓へ!長曾我部家の隆盛と再興、双方のきっかけを作った「島弥九郎事件」とは?:2ページ目
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意外な形での復姓
こうした一連の話を聞くと戦国大名の兄弟愛が感じられるエピソードとして読めますが、時代も時代なので、元親が病弱の弟をおとりに出して阿波侵攻の口実を作ったのではないか、という説もあるようです。
真相は不明ですが、結果的にこの事件がきっかけとなって、元親は阿波國を手中に収めました。そしてその後、四国全体を平定することになります。
しかし、その後の元親の末路はご存じの通りです。豊臣政権発足後は、長男である長宗我部信親(のぶちか)を戸次川の戦いで失います。
また、後継の四男・長宗我部盛親(もりちか)は、関ケ原の戦いで西軍側で参戦して改易。大坂冬の陣・夏の陣に豊臣方で参戦したため、合戦後は捕らえられて処刑されました。
この流れで盛親の子も全て処刑され、長宗我部家嫡流は断絶となります。
ところで、那佐湾で命を落とした島弥九郎には子がおり、大坂夏の陣の後に土佐藩で入牢した後、下士として取り立てられています。
さすがに長宗我部姓を名乗ることはできませんでしたが、それからも島氏は土佐藩に仕え続け、明治時代になると天皇から復姓が認められています。そして、途絶えていた長宗我部家の家督を継ぐことになったのです。
現在も続いている長宗我部家の源流は、実は「本流」が一度断絶しており、その後、悲劇の死を遂げた島弥九郎の末裔が引き継ぐ形となったのでした。
参考資料
・土佐の長宗我部元親、他國侵攻の契機となった事件
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