戦国時代、クリスマスにはあの武将も一時休戦!?日本人のキリスト教受容の歴史:2ページ目
キリスト教禁止と明治以降の「復活」
その後はご存じの通りで、キリシタンたちは「隠れキリシタン」と呼ばれます。キリシタン大名の中には黒田官兵衛の名もありましたが、彼は追放令にあわせて臨済宗に帰依し、後に如水と呼ばれています。
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江戸時代になると1612年に「禁教令」が発令され、1873年に解除されるまでクリスマス行事は完全に姿を消しました。それでも、隠れキリシタンたちはクリスマス行事を続けていました。キリスト教にとってこの行事は特に重要なものでしたので、呼び名を変えてひっそりと行っていたそうです。
再びクリスマス行事が日本国内で広まっていったのは、明治時代のことです。クリスマスのことを報道した最も古い新聞記事は1879(明治12)年の12月4日のもので、朝日新聞で「25日は耶蘇(やそ)の大祭日なので信者を川口天主堂に集めて行事をする」と紹介しています。
そして1892(明治25)年、東京の菓子店壺屋が「クリスマスお菓子」と銘打ってボンボン、フロンケーキなどの広告をやはり当時の朝日新聞に掲載。これが「クリスマス」という言葉の初出だそうです。
こうして、クリスマスというものが改めて一般庶民の間にも広まっていく大きなきっかけとなったのが、日露戦争の最中だった1904年です。銀座「明治屋」の店頭にクリスマスツリーなどの装飾物が展示されて大きな話題になったのでした。
大正時代になると、クリスマスの飾りつけやプレゼントをすることが年末行事として根付いていきました。1915(大正4)年には「お歳暮はもうありきたり、クリスマスプレゼントの方が新しい」とまで新聞で書かれたことも。
日本人にとっては言うまでもなく「異国のお祭り」であるはずのクリスマス行事も、昔からの浅からぬ縁があるんですね。
参考資料
・ゆるりと楽しく戦国時代
・朝日新聞 明治・大正データベース