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皇居はなぜ江戸城の「本丸」に設置されなかった?江戸幕府の落日と権力者の悲哀

皇居はなぜ江戸城の「本丸」に設置されなかった?江戸幕府の落日と権力者の悲哀:3ページ目

最後の将軍、そして最後の江戸城

ご存じの通り、彼は1868(慶応4)年1月3~6日までの4日間に渡って繰り広げられた鳥羽・伏見の戦いのさ中、開陽丸で大阪城から逃亡しています。そして11日に品川沖に入り、12日に西の丸御殿に入城しました。

この記述は私も何度も目にしていたのですが、この時彼が入ったのがなぜ「西の丸御殿」だったのか、最初は意識していませんでした。実はこの時の江戸城は、本丸が丸焼けになった切ない状態だったのです。

そして、彼はこの時すでに新政府に対する恭順の意志を示していました。反対派を押し切って老中職の廃止、主戦派の罷免、勝海舟を陸軍総裁に任命するなど、幕府解体と最低限の組織再編のための手続きを大急ぎで行っています。そして2月12日には江戸城を出て、上野の寛永寺で謹慎生活に入りました。

考えてみると、彼が将軍職に就いたのは京都でのことでしたし、将軍として江戸城に君臨した期間はほんの僅かな期間でした。しかも最後は実質的に「後始末係」みたいな役割だったことになります。

今では私たちは江戸城の跡を「皇居」として見慣れていますが、建物の歴史をたどってみるだけで、権力者たちの落日とそのドラマを垣間見ることができるのは興味深いことです。

参考資料
dメニューニュース「最後の将軍」徳川慶喜と江戸城 延々たる後半生をまっとうした希有な権力者」
国立公文書館「変貌-江戸から帝都そして首都へ-5.江戸城を皇居と定め東京城と改称」

 

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