皇居はなぜ江戸城の「本丸」に設置されなかった?江戸幕府の落日と権力者の悲哀:2ページ目
幕末期に江戸城を見舞った災禍
本丸と言えば幕府の将軍のいわば「本邸」です。それが失われた江戸城が、今度は皇居になったのですから、それだけでも“激動”という感じがしますね。しかもこの経緯をたどっていくと、最後の将軍である徳川慶喜の動向とも関わってくるところがあり、どことなく江戸幕府の落日を象徴しているようで感慨深いものがあります。
1853(嘉永6)年の黒船来航がきっかけとなって、江戸幕府は試練の時期を迎えるわけですが、実はこの時期は大火事が連続して起きた時期でもありました。
江戸城の本丸御殿はこのちょっと前の1844(天保15)年と、先述した1863(文久3)年に焼けています。また二の丸御殿も、同じく1863年と1867(慶応3)年に焼け、西の丸御殿もやはり1863年と、その少し前の1852(嘉永5)年にそれぞれ全焼しています。
特に1863(文久3)年の火災が凄まじいですね。ぜんぶ焼けています。
喧嘩と火事は江戸の華、などという言葉がありますが、時の権力者の居宅がこれほどまで焼けるのは異常です。江戸全体を見ても、1851(嘉永3)年から1867(慶応3)年までの17年間では506回もの火事が発生しており、これは結局のところ、幕府の権力低下による治安の悪化が大きく影響していると言われています。
もちろん、ある時期までは幕府も再建を試みています。しかし先述の財政難と政治的困難のため、本丸御殿は1863年、二の丸御殿は1867年の焼失以降は再建されることはありませんでした。
ではそれで政治は成り立ったのかというと、大丈夫だったようです。幕末の動乱期で、将軍は京都へ行ったままですし、参勤交代もグダグダになっていたことから、西の丸御殿だけでもなんとかなったんですね。
この、「なんとかなった」というのも哀しい話です。そしてこの、とても寂しい状態の江戸城でほんの少しだけ治世を行った将軍が徳川慶喜でした。