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生き残るより主君への忠義。戦国時代、九州で起きた強烈な激戦「岩屋城の戦い」

生き残るより主君への忠義。戦国時代、九州で起きた強烈な激戦「岩屋城の戦い」

日本の歴史に名が残る有名な戦いや合戦はいくつもありますが、九州で起きた、強烈な激戦「岩屋城の戦い(いわやじょうのたたかい)」はご存じですか?

今回の記事では、そんな岩屋城の戦いについてご紹介します!

岩屋城の戦いが起こった背景は?

時は戦国の世、天正12年(1584年)。九州では、島津氏が沖田畷の戦いで龍造寺隆信を廃止させ、勢力を急速に伸ばしていました。

九州の他の小勢力はどんどん島津氏との関係を強化していきました。翌年には、島津氏が待ち望む九州全土の制覇を阻む存在は、九州北部6ヵ国を支配していた守護大名の大友氏だけとなっていました。

島津氏の当主であった島津義久は筑前への進撃を命じ、2000名あまりで出撃。筑紫広門が大友氏側に出兵の前に寝返りましたが、彼を下すと、残すところは岩屋城の高橋紹運と紹運の次子である高橋統増(のちの立花直次)、立花山城主で紹運の長子である立花宗茂といった大友氏の配下だけとなっていました。

岩屋城の戦いの経過

島津氏は相手に降伏を提案しますが、岩谷譲に籠った763名の軍は徹底抗戦をします。島津軍は攻撃を開始しますが、島津軍の大半は他国衆であったために兵士たちのやる気は欠けていました。

それが仇となり、島津軍は予想外に苦戦し、多くの死傷者が出てしまいました。

島津軍は、高橋紹運に実子を差し出すことを条件として降伏するよう再度提案しますが、紹運はこれも受け入れませんでした。誰もが勝てないとわかっていながら、生き残るより主君である大友宗麟への忠義を選びました。

この姿勢は、敵味方関係なく称賛を浴びたと言われています。最終的に、高橋紹運は自害し、彼の配下全員も討死しました。

2ページ目 岩屋城の戦いが島津氏に与えた影響

 

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