線香よりも竹刀の音を…近藤勇の志を継いだ明治時代の剣客・近藤勇五郎の遺言
時は幕末、戊辰戦争(慶応4・1868年1月~明治2・1869年5月)に敗れて処刑された新選組局長・近藤勇(こんどう いさみ)。
多摩の百姓として生まれながら武士に憧れて剣客となり、仲間たちと京都へ上って大いに暴れ回った近藤たちの生涯は、今も人々の胸を打ちます。
今回はそんな近藤から剣統を受け継ぎ、明治以降の近代を生き抜いた剣客・近藤勇五郎(こんどう ゆうごろう。信休)の生涯をたどってみましょう。
近藤勇の遺志を継ぎ、天然理心流を再興
近藤勇五郎は江戸時代末期の嘉永4年(1851年)12月2日、近藤勇の長兄である宮川音五郎(みやがわ おとごろう)の次男として武州上石原村(現:東京都調布市)に生まれます。
13歳となった文久3年(1863年)2月、叔父の近藤勇が浪士組に加入して京都へ出立する際に勇の一人娘である近藤瓊(たま)の許婚となりました。
「わしに何かあった時は、妻(つね)と娘を頼んだぞ」
「はい!」
近藤勇が第4代目宗家を務める天然理心流の第5代目継承者に指名された勇五郎は、彼らが後顧の憂いなく奉公できるよう大いに意気込んだことでしょうが、待っていたのは近藤勇の処刑。
(義父上……っ!)
慶応4年(1868年)4月25日、江戸は板橋で近藤勇の最期を見届けると、郷里に帰って父・音五郎と共に勇の遺体を引き取りに行きました。
「義父上が安心できるよう、天然理心流宗家は私が立派に受け継いで参ります」
新政府軍の監視があったため、しばらく許婚の瓊、姑のつねと本郷村の成願寺(現:東京都中野区)に隠れ住んでいた勇五郎は、明治9年(1876年)に瓊と結婚、近藤家の婿養子となります。
「さぁ、これから天然理心流宗家を再興させよう!」
近藤勇の生家向かいに剣術道場を開いた勇五郎は、剣客として名高い旧幕臣の山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)に撥雲館(はつうんかん)と命名してもらいました。
「撥雲とは雲を払い去るの意……世に立ち込める暗雲を、鋭い太刀風で吹き払い、真に明るく治まる世の一助たらんことを期待しておる」
「ありがとうございます!」
かくして撥雲館は多摩地域を中心に最大3,000人の門弟を抱えるまでに成長し、明治16年(1833年)には長男の近藤久太郎(ひさたろう)も誕生。公私ともに充実した日々が察せられます。