イメージは裏切り!?戦国時代、武田勝頼を裏切り徳川氏にくだった武将・穴山梅雪の生涯
みなさんは、「穴山梅雪(あなやまばいせつ)」という人物の名前を聞いたことがありますか?
主君であった武田勝頼が力を失っていった際に、裏切ったエピソードが有名ですが、今回の記事では、そんな穴山梅雪の生涯や人柄について詳しくご紹介したいと思います!
ちなみに、穴山梅雪という名前は、彼の壮年期に剃髪して梅雪斎不白と号したことが理由で呼ばれる名前で、本名は穴山信君(あなやま のぶただ)です。しかし、この記事では「穴山梅雪」の表記で統一します。
穴山梅雪の生涯
穴山梅雪は、武田一族衆(武田親族衆)にあった穴山家、穴山信友の嫡男として、天文10年(1541年)に生まれました。穴山氏は武田姓を名乗ることができる数少ない一族でした。
武田氏とのつながりが強かった一方で、河内支配では武田氏の支配体制とは違う独自の組織を持っていたとされています。穴山梅雪は、永禄元年(1558年)ごろから家督を継いでいます。
永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いでは、本陣を守ったことが記録に残っています。今川氏をはじめ、浅井・蒲生・六角・三好氏らとの外交も担当し、あらゆる面で活躍します。しかし、武田信玄の死後、跡を継いだ勝頼と梅雪は対立を深めていきます。
主君を裏切る準備をすすめ、天正10年(1582年)、ついに徳川氏にくだります。織田信長との謁見も果たしますが、本能寺の変が起こり、堺にいた梅雪は甲斐へ帰ろうとします。
しかし、その途中に一揆衆に襲われ、命を奪われます。
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