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斬首くらいでスグ死ぬな!?武士道バイブル『葉隠』が教える豪傑たちの最期

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義貞と道賢、それぞれの最期

新田義貞は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した南朝の武将で、後に室町幕府を開いた足利尊氏(あしかが たかうじ)のライバルとして有名ですね。

その最期は建武5年(1338年)閏7月2日、越前国藤島燈明寺畷(現:福井県福井市)で足利勢との交戦中に討死。眉間に矢が突き立ち、観念して自ら喉笛を掻き切ったと言われています。

結局、首級は足利勢の氏家重国(うじいえ しげくに)に奪われましたが、その直後に何か一働きをしたのでしょうか。

一方の大野道賢(道犬斎、大野治胤)は戦国時代末期、豊臣秀頼(とよとみ ひでより)に仕えた重臣・大野治長(おおの はるなが)の弟で、故あって浪人していたところ、大坂の陣に際して豊臣方へ加勢。

前半戦(大坂冬の陣)では油断して大敗を喫し、味方からも「橙武者(だいだいむしゃ。見掛け倒し)」と嘲られますが、後半戦(大坂夏の陣)では汚名を返上すべく奮戦、堺の町を焼き討ちにします。

大坂城の陥落後に捕らわれ、焼け出された堺の町衆によって火あぶりにされてしまいました。

しかし、道賢は全身が炭になったはずなのになおも立ち上がり、周囲の者に斬りかかろうとしたと言います。

すぐに崩れ落ちてしまったそうですが、凄まじい執念を恐れた人々は、道賢の霊をねんごろに供養したのでした。

終わりに

新田義貞と大野道賢、それぞれ壮絶な最期ではあったものの(最期の瞬間に)首は落とされておらず、『葉隠』の言及とは異なります。

しかし、それでも平素の心がけが最期の「一働き」をなさしめたのであり、息絶えるその瞬間まで武士たらんと務める執念は、命を生き切ることの大切さを現代に伝えているようです。

※参考文献:
古川哲史ら校訂『葉隠 下』岩波文庫、2011年6月
阿部猛ら編『戦国人名事典』新人物往来社、1990年8月
峰岸純夫『新田義貞』吉川弘文館、2005年5月

 

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