開店初日に大火も、その後150年間、暖簾を守り続ける老舗西洋料理店・精養軒:2ページ目
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それは、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された欧米使節団「岩倉使節団」です。当時、重威は53歳…自分の夢に向かってのラストチャンスでした。
ところが、重威は年齢制限を理由に使節団のメンバーから漏れてしまいます。海外視察というまたとないキャリアを積める機会を得られなかった重威の野望は志半ばで潰えてしまいました。
そこで、重威は官吏への夢を捨て実業家へと転身します。
ここで私が思うに、重威は政治の舞台に立つことが叶わなかったが、日本の近代化のために何ができるか…そのように模索した結果、「外国人たちとの交流の場」を作ることを志し、精養軒が生まれるに至ったのではないかと想像します。
このように、強い思いを持った北村重威にとって、開店当日に火災にあったとしてもやめる訳にはいかなかったのでしょう。そして、その思いは、火災に遭ってからわずか二か月後に、銀座木挽町(現時事通信社)で営業を再開させることになります。
焦土と化した銀座の中で復活した西洋料理屋は、それまでの「サムライ」の時代に別れを告げ、日本が新しい時代へと入っていくことを象徴的に表しているように感じます。そして、明治6年には欧米視察より帰国した岩倉具視の勧めもあって、新たに開設された上野公園内にレストランと社交の場の機能を併せ持つ「上野精養軒」を誕生させています。
その後の精養軒は、「社交場」という新しい文化の風をもたらし、日本の近代化に一役買ったことは言うまでもないでしょう。鹿鳴館や帝国ホテル等が、精養軒の創業から10年以上後に生まれていることからも、華やかな文明開化の草分けと言えます。
関東大震災後に本店が上野に移った後も、精養軒は北村重威の強い思いとともに今もその伝統を守り続けています。
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