少年マンガっぽい響きにキュン!古代ヤマト政権「倭の五王」の正体とは?:3ページ目
「倭の五王」の正体は
さて、では「倭の五王」として記録が残っている「讃・珍・済・興・武」とは何者だったのでしょうか?
この「讃・珍・済・興・武」というのは、いずれも当時の「倭」の王で、名前を中国の習わしに合わせて漢字一文字で表したものです。しかし具体的に「どの王がどれを名乗ったのか」は記録がないため判然としません。
ここで、天皇の歴史が記された『日本書紀』『古事記』と、『宋書』倭国伝を突き合わせていく作業が必要になります。
まず結論を述べると、「讃」と「珍」は、史料同士の食い違いが多いためその正体を特定するには至っていません。
他の「済・興・武」については、
済……允恭(いんぎょう)天皇
興……安康(あんこう)天皇
武……雄略(ゆうりゃく)天皇
とするのが、最も有力な説となっています。
このうち、「武」にあたる雄略天皇は古墳時代で最も有名な大王です。彼は強烈なカリスマを持った武人で、従わない勢力を徹底的に潰したといわれています。
その頃、ヤマト政権内部では天皇家の勢力が衰えていたのですが雄略天皇によって盛り返しています。
そして中国の記録では、「武」という王は日本や新羅、加耶の軍を束ねる将軍としての称号を与えられています。
一方日本国内では、、雄略天皇の名前を意味する「ワカタケル」という名が刻まれた鉄剣や鉄刀が5世紀末頃の遺跡で見つかっています。これにより、「武」という名は「タケ」または「タケル」を意訳したものと考えられます。
参考資料
山﨑圭一『一度読んだら絶対に忘れない日本史の教科書』2019年
世界の歴史まっぷ「好太王碑」