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少年マンガっぽい響きにキュン!古代ヤマト政権「倭の五王」の正体とは?

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当時の朝鮮半島諸国との関係

「倭の五王」の動向の理由を知るには、当時の朝鮮半島の情勢を知っておく必要があります。

当時、朝鮮半島北部の国「高句麗」は、南下政策をとっていました。

そのため、南部の国「百済」や中南部にあった小国家群「加耶諸国」は圧迫される形になっていました。

それは、当時の「倭」で絶大な力を持っていたヤマト政権にとっても都合の悪いことでした。加耶諸国から得ていた鉄資源が途絶えるおそれがあったからです。

また、ヤマト政権は、大陸からの文化を摂取することで文明的な力をつけ、国内の諸豪族を従わせていました。国外での勢力を維持することは、国内での権力と政治の安定を維持するための必須条件でもあったのです。

よって、ヤマト政権は、百済や加耶諸国と手を組んで、高句麗と戦うようになりました。

この頃の記録は日本国内には残っていません。

しかし、大陸には、有名な「好太王碑(こうたいおうひ)」という石碑が残っています。「広開土王碑」とも呼ばれているものです。この石碑に、日本が朝鮮半島に出兵したことを示す碑文が残っています。

好太王碑について少し解説しますと、これは高句麗の19代目の王・好太王(広開土王)の業績を称えたものです。現在の中国吉林省に存在しており、4~5世紀初頭の朝鮮半島の歴史などを知る上での貴重な一次資料とされています。

ここには、ヤマト政権が派遣した軍が高句麗と戦ったことが記されています。

碑文の読み方や解釈については諸説あるようですが、当時の高句麗は、朝鮮半島中南部以降の諸国の動向に目を光らせており、わりと頻繁に倭人(日本人)の侵入を受けて交戦していたらしいことが伺われます。

ちなみに、高句麗との争いを通して日本は騎馬技術を習得し、馬の育成を始めたとされています。当時、高句麗は騎馬軍団を持っていたのでそれに対抗する必要があったのでしょう。

他国に軍隊を送り込んだり、戦場での技術を進化させたりと、当時のヤマト政権はなかなかの軍事国家だったことが伺えますね。しかも、国外へ出兵する余裕があったということは国内政治も安定していたと思われます。

さて先述の通り、好太王碑に記されているのは4~5世紀初頭の出来事です。そろそろ「倭の五王」の登場です。彼らは、こうした朝鮮半島情勢をふまえ、その渦中にあった倭を高い地位において外交や軍事を優位に進めていくために、中国へ使者を派遣していたのです。

当時は、朝鮮半島の諸国も同じようなことをしていました。こうしたやり方が、当時のスタンダードだったのでしょう。

その結果、ヤマト政権は朝鮮半島内の新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の統治について公認を得ています。

また、倭の五王が中国へ使いを送っていた理由はそれだけにとどまりません。当時の中国の文明を摂取しつつ、皇帝の威光によって日本国内の支配と安定をはかっていたとも考えられています。

3ページ目 「倭の五王」の正体は?

 

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