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逆賊とされた蘇我入鹿を祀る神社が奈良橿原にあった!旅で見つけた隠れ歴史スポット【後編】

逆賊とされた蘇我入鹿を祀る神社が奈良橿原にあった!旅で見つけた隠れ歴史スポット【後編】:2ページ目

入鹿神社で感じられる地元の「入鹿愛」

 

入鹿神社の祭神は、蘇我入鹿と素戔嗚尊(スサノオノミコト)の二神。両神の木造坐像をご神体としています。

神社の創建年代など、詳しいことは分かりません。しかし、神社に伝わる話しによると、蘇我氏の本貫地とされる曽我に隣接しているこの地は、入鹿が幼少時代を過ごした場所であるそうです。

一間社春日造の本殿は、江戸初期建造と推定される橿原市指定文化財。檜皮葺の屋根、中央蛙股肘木の中に丹精に彩色された彫刻が施された室町時代の風格を漂わせる建築物です。

入鹿神社には、様々な伝説や伝承があります。そのどれも、地元の人々の入鹿に対する愛情や尊敬の念が伝わって来るもの。そんな伝承を幾つかご紹介しましょう。

地元小網町では鶏を飼わなかった

乙巳の変の際、中大兄皇子や中臣鎌足は、鶏鳴を合図に入鹿に斬りかかり、その首を刎ねた。そのため、小網町では昔はどの家も鶏を飼わなかった。

多武峯の談山神社へは参拝しない

多武峯には、入鹿を殺害した中臣鎌足を祀る談山神社がある。小網町の人が参拝すると必ずといってよいほど腹痛が起きたという。

明日香村小原との縁組は禁止

中臣鎌足の生誕地とされる明日香村小原出身の人と、小綱町出身の人の縁組は行ってはいけないとされていた。

改名を迫る明治政府の命令を拒む

1889(明治22)年、神武天皇を祀る橿原神宮が造営された。その際に、明治政府は、逆臣である入鹿の名を冠するのは、皇国史観に反するとして、神社名を小網神社に変更するよう命じた。しかし、入鹿を尊敬する地元の人々は、この要求を頑固拒んだという。

蘇我入鹿と蘇我氏が残した功績とは

 

洋の東西を問わず、歴史とは何かと考える時、それは、勝者の歴史といえます。歴史の表舞台に立つのは常に勝った立場の人々です。彼らは、自らの手で滅亡に追い込んだ人々を、様々な手を使い、貶め、抹殺していきました。

だからこそ、後世に生きる我々は、できる限り敗者に寄り添いながら、歴史をかんがみることが大切だと考えます。

歴史の真実を語るとしたら、蘇我入鹿、そして蘇我氏がいたからこそ、日本は律令国家として成立しました。彼らが日本の歴史に残した功績はとてつもなく大きなものであったのです。入鹿神社の静かな境内に佇むと、そんな思いにとらわれずにいられません。

 

入鹿神社の近くには、今井町や八木の町並みなど、まるで江戸時代にタイムスリップしたような錯覚を覚えるような貴重なスポットがあります。

見応えのある町家が建ち並び、古い家屋を利用したレストランや食事処、カフェ、雑貨のお店などがある、魅力がいっぱいの場所です。

 

この記事をお読みの皆さんも、奈良に行かれたら、一足伸ばして大和八木近辺に足を運び、入鹿神社に参詣し、隠れた歴史を肌で感じていただければ思います。

2回にわたりご愛読をいただき、ありがとうございました。

 

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