返答は庭への放尿!せっかくの出世を断った「賤ヶ岳の七本槍」平野長泰かく語りき:2ページ目
随分と見くびられたものだ……片や40万石の大大名、片や5千石の旗本ではあるものの、長泰は家康の直参であり、立場上は同僚である細川家の下風に立ついわれはありません。
そこで長泰は忠興の誘いには答えず、席を離れて縁側に仁王立ちすると、庭に小便を放ちながら言いました。
「やぁだよ。アンタの家臣になったら、ここで小便ができねぇだろうが!」
【原文】
「御手前の家中になりては、爰(ここ)から小便する事がならぬ。」
いや、どこの庭でも小便なんてしてはいけませんが、長泰としてみれば、自分を見くびった忠興に対して意趣返しをしてやりたかったのでしょう。
「2,500石ぽっち、いや、たとい20万石をくれたって、お前の下風に立たされる筋合いはねぇんだよ!」
出世に興味もなかないが、武士は名をこそ惜しむもの……槍一本で敵中に突っ込み、命を賭けて勝ち取った5千石は、媚びへつらって頂戴した20万石より遥かにまさる……戦国乱世を闘い抜いた「賤ヶ岳七本槍」長泰の高笑いが聞こえてくるようですね。
エピローグ
七三 平野権平殿は、賤ケ嶽先登七本鎗の内なり。後に家康公御旗本に召しなされ候。或時、細川殿へ振舞に参られ候。御亭主御申し候は、「権平殿の武篇は日本に隠れもなき事にて候。斯様の大勇士を唯今の通りの小身にて召し置かれ候儀、残念にて候。さこそ御不如意にこれあるべく候。我等家中になど御成り候はゞ、領知半分は遣し申すべき」由御申し候。権平殿兎角の返事なく、不図座を立ち縁に出で、正面に立ちはだかり、小便を致しながら申され候は、「御手前の家中になりては、爰から小便する事がならぬ。」と申され候由。
※『葉隠』巻十より。
……余談ながら、平野家は江戸時代を通じて代々続き、第10代・平野長裕(ながひろ)の時に明治維新を迎えました。
長裕は新政府から1万石を与えられて田原本(たわらもと)藩を立藩。慶応4年(1868年)から明治4年(1871年)の廃藩置県までの3年間ですが、大名に列することができたそうです。
足かけ10代の悲願?が果たされて、長泰もさぞ喜んだことでしょう。
※参考文献:
戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典』吉川弘文館、2005年12月
古川哲史ら校訂『葉隠 下』岩波文庫、2011年6月