幕末秘話。日本とロシアが一触即発の危機に!樺太などの北方を守った会津藩 【後編】:2ページ目
北方警備が会津藩にもたらしたもの
本営の地となる樺太のクシュンコタンに到着した藩兵745名は、1か月弱で陣屋を構築します。クシュンコタンは、前年にロシアに襲われ、番屋などが焼かれ、残骸が残るのみでした。
ここは、文字通りの最前線であったのです。会津藩士達は、来るべくロシアとの戦闘に備え、度々、実戦的な大演習を行い、監督のために同行していた幕府役人を感嘆させたと伝わります。
会津藩兵の滞在期間は、7月7日まで続きました。その間、ついにロシア軍は姿を見せませんでした。それは、この当時、ロシアはヨーロッパ戦線でフランスのナポレオンと激戦を繰り広げていたため、樺太どころの話しではなかったのです。
樺太の短い夏が終わるころ、ロシア来襲の恐れがなくなったことから、会津藩による北方警備の任は解かれました。その頃になると、樺太在住のアイヌ人達と会津藩士との間には良好な関係が築かれていました。
会津人の持つ規律正しさ、ぼくとつながら人情の深さなどが、アイヌの人々の掴んだのでしょう。別れの日、多くのアイヌ人たちが船出する会津船を追って海岸線を走って名残を惜しんだとの話が残っています。
藩兵達は順次、北方からの帰路につきます。しかし、折からの台風シーズンと重なり、海は大荒れの日が続き、大変な難儀であったようです。
そのため、早い隊で、8月23日、最終は11月28日に会津に到着したのです。
この後、会津藩は、北方警備の実績を幕府から認められ、江戸湾・房総警備を命じられます。藩主は、19歳で早世した容衆を継ぎ、容敬(かたたか)が就任していました。
英俊との誉れが高かった容敬は、幕府からの信頼も厚く、会津藩は、1000人以上の藩士を派遣し、江戸湾・房総各地に国防のための陣屋や砲台を築きます。
容敬(かたたか)は49歳で亡くなると、容保(かたもり)が後を継ぎました。幕府の会津藩編への依存は増々高まり、品川台場の建設を受け持ちました。
幕末前夜の北方警備から江戸湾・房総警備、そして、幕末の品川台場の建設を通じて、会津藩は献身的な活動を行います。
しかし、それが会津藩を幕末の動乱の渦中へと引きずり込んでいきました。そして、容保の京都守護職就任、さらには、鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争へと続く、会津藩の悲劇に繋がっていくのでした。
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