そう言えばペリー提督って「黒船」の後どうなった?幕末の素朴な疑問を紹介:2ページ目
2ページ目: 1 2
エピローグ
さて、交渉のすえ嘉永7年(1854年)3月3日に日米和親条約を調印、7月11日に琉米修好条約を締結、日本開国の大役を果たしたペリーは香港へ渡りました。
かねて体調を悪くしていたペリーはアメリカ本国に帰国申請を出し、許可が出ると東インド艦隊の指揮権を譲ってミシシッピ号を下船。イギリス船に乗せてもらってニューヨークへ帰還し、1855年1月22日、東インド艦隊司令長官の退任式が挙行されます。
余談ながら「たった四杯」と詠まれた蒸気船ですが、実は浦賀に来航した軍艦4隻のうち蒸気船はミシシッピとサスケハナの2隻のみで、残るプリマスとサラトガは帆船だったそうです。
晩年は日本への遠征中に測定した気象情報をまとめたり、遠征の体験記を出版したりなど精力的に活動し、1858年3月4日、63歳の生涯に幕を下ろしました。
永い泰平の眠りから叩き起こされたことで、日本は激動の時代に突入していくのですが、そんなことなどお構いなしで永遠の眠りにつくペリー……何だか、彼らしいと言えばらしいですね。
※参考文献:
岩下哲典『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』洋泉社、2006年5月
岸俊光『ペリーの白旗 150年目の真実』毎日新聞社、2002年11月
西川武臣『ペリー来航 日本・琉球をゆるがした412日間』中公新書、2016年6月
渡辺惣樹『日本開国 アメリカがペリー艦隊を派遣した本当の理由』草思社、2009年11月
ページ: 1 2