15代将軍・徳川慶喜、敵前逃亡の後日談。大坂脱出に関わった人々のその後とは?【その1】:2ページ目
東帰の人選はどのように行われたのか
徳川慶喜は、大坂城を脱するにあたり、どのような理由で供の人選を行ったのだろうか。
そのカギを握るのが、若年寄兼陸軍奉行の要職にあった浅野氏祐の談話だ。
1月2日、浅野を乗せた旧幕府軍軍艦・順動は、品川沖を出帆し、1月6日に大坂天保山沖に投錨した。上陸した浅野は、江戸の情勢を伝えるべく大坂城を目指したが、その道すがら旧幕府軍の鳥羽・伏見での敗戦を聞くことになる。
驚いた浅野は、大坂城に入ると、先ほどまで御前会議に出席していたという板倉勝静と話ができた。
板倉:美作殿(浅野)、事態は最悪の状況に陥っている。こうなっては、最早どんな議論も策も無駄である。
この責任は、筆頭老中の自分にあり、どんな責めも甘んじて受けるつもりだが、貴殿には合わせる顔がない。
と、意気消沈も甚だしい。
しかし、気を取り直して、慶喜公がお待ちなので早く目通りするように促してきた。それで、浅野は慶喜に拝謁する。
慶喜:時勢は日々切迫して過激論者の暴発をとても防げそうにない。
鳥羽伏見の戦いは、先走った一部の過激論者が行ったことだ。その上、錦旗にまで発砲し、ついには朝敵の汚名までを着せられてしまった。
これ以上、自分が大坂城に留まれば、ますます過激論者たちを刺激して、どんな大事を引き起こすか分かったものではない。
この上は、自分は速やかに江戸に戻り、恭順謹慎を貫き、朝命をお待ちしようと思う。
ただし、浅野よ。このことは、秘密であるぞ。そなただけの胸にしまい、決して他に漏らしてはならぬぞ。(『徳川慶喜公伝資料編』)
浅野が慶喜の御前を退出すると、板倉が慶喜の御直筆を見せてきた。
そこには、慶喜が大坂城脱出に際して、連れていく者とそうでない者が書かれていた。
●江戸に連れていく者……板倉勝静・酒井忠惇・平山敬忠・永井尚志
●大坂城に残す者……
・松平正質(まつだいらまさただ)[老中格/総督・大多喜藩主・豊前守・大河内正質とも]
・竹中重固(たけなかしげかた)[若年寄並陸軍奉行・旗本・丹後守]
・塚原昌義(つかはらまさよし)[若年寄/副総督・旗本・但馬守]
この人事は、明らかに対薩長強硬論者であった松平・竹中・塚原の3人を除外し、自分の意が及ぶ者のみを選んだものだった。
さらに、慶喜は松平容保・定敬兄弟を強制的に大坂城から連れ出す。
これも、二人を大坂城に残せば、鳥羽・伏見の前線から戻ってきた会津・桑名藩兵が維新政府軍と徹底抗戦を叫ぶことを怖れた故の処置だった。
『前代未聞の敵前逃亡!15代将軍・徳川慶喜が大坂城から逃げた真相に迫る/その2』で述べた通り、この時点での慶喜の心境は、すでに恭順謹慎に決していたのだろう。
【その1】は、ここまで……
【その2】では、慶喜とともに江戸に戻った人々と慶喜東帰に関わった人々の中で、慶喜の意を介し、恭順謹慎した人々のその後を紹介しよう。