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明治時代の競馬はギャンブルではなく貴族の社交場。不忍池にあった競馬場とは?

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不忍池競馬場の建設、華やかな開催からその終焉

開場に向けて池畔の一部を埋め立てたコースの整形や、メインスタンドとサブスタンド、馬200頭を収容できる厩舎が建設する工事が明治17年に着手された。江戸時代の不忍池は今とはかなり異なった形をしていたようで、現在の池の形はこの時の工事によって出来上がったものである。

そして、同年11月に天皇臨席のもと記念すべき第1回の競走が開催された。馬見所2階中央には明治天皇が座り、その左右には小松宮や有栖川宮をはじめとした宮家や旧大名、華族、各省高官、各国公使が列席。一般人もコースの外柵際の桟敷席でレースを観戦することができた。

池には満艦飾で飾り立てた舟を浮かべ、陸軍楽隊が音楽を演奏。演芸披露に打ち上げ花火、パラシュートを付けた人形が打ち上がるなど、まさに社交界の華やかなパーティーのような開場となった。

しかし、馬券を販売できないことが痛手となり、徐々に経営が悪化。競馬は春場所・秋場所と定期開催され、明治天皇も何度か観覧していたが、経営難のため1892年(明治25年)の秋場所を最後に上野不忍池競馬は終了した。

今では馬どころかもっとたくさんの動物がいる上野の不忍池。日本が西洋列強に必死に追い付こうとしていた歴史の断片が、池の形から見えてくるようである。

 

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