明治時代の競馬はギャンブルではなく貴族の社交場。不忍池にあった競馬場とは?
上野の名所として有名な不忍池は、寛永寺創建の際に寺の山号を比叡山にならって、東叡山としたことから天海によって琵琶湖に見立てられた。
夏には池一面に蓮の花が咲き乱れ、江戸時代には蓮の葉にお米を包んで蒸した蓮飯が周辺の茶屋で蓮見客に提供されるなど、由緒ある江戸の名所だが明治時代のほんの少しの間だけ競馬場として活用されていた。
あの辺りを馬が走っていたなんて今では全く想像ができないが、一体どのように競馬場が成立したのだろうか。
ギャンブルではなく貴族の社交場だった上野の競馬場
この地で競馬が行われていたのは明治17年(1884)から明治25年(1892)までの8年間。主催は明治12年(1879)に設立された共同競馬会社で、元々は戸山(現在の東京都新宿区)に競馬場を構えていたが、少々交通の便が悪かったため不忍池へと場所を移すこととなったのが始まりである。
競馬は発祥国のイギリスでは貴族の社交の場であったため、日本でもギャンブルではなく、「屋外の社交場」という形で開催された。
そのためか不忍池競馬が開催された当時の共同競馬会社の社長副社長は皇族・旧大名クラスが務め、幹事には伊藤博文、西郷従道、松方正義、岩崎弥之助のほか、会計長に三井八郎右衛門が就くなど錚々たる面々が名を連ねていた。
上野不忍池が競馬場として選ばれたのは交通の便の良さもあったが、西洋各国にならって貴族の社交場としての競馬場は公園内にあるのがふさわしいと考えられたからだと言われている。
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