大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のクライマックス!承久の乱はなぜ起きたのか?:2ページ目
最後にして最大のピンチを打破した、政子の演説
さぁ大変です。
「ついに来た……最も避けたかった形で!」
これまで平家一門をはじめ、梶原景時(かじわらの かげとき)、比企能員(ひき よしかず)、畠山重忠(はたけやま しげただ)、和田義盛(わだ よしもり)など何人もの強敵を葬り、幾度もの死線をくぐり抜けて来た義時ですが、今度ばかりは相手が違います。
「かくなる上は、潔く錦旗(きんき。官軍の象徴、錦の御旗)に降るべきだ」
「たとえ処断されようと、朝敵(ちょうてき。朝廷の敵)の汚名だけは避けねばならぬ」
「西国ではかつて冷遇された御家人たちが、次々と上皇方についていると聞く。到底勝ち目はない」
「いや、たとい勝利したところで、畏れ多くも朝廷に対して弓を引いた以上、逆賊として遠からず滅びよう」
「ここは一つ、執権(義時)殿にご覚悟(≒自害)頂き、お詫びの印(≒義時の首級)を持参するしか……」
大いに動揺する御家人たちを叱咤激励したのが尼将軍こと政子の演説と言われていますが、政子自身が演説したという『承久記(じょうきゅうき)』に対して、幕府の公式記録『吾妻鏡(あづまかがみ)』では、政子の原稿を代読させたと言います。
皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大將軍朝敵を征罰し、關東を草創してより以降、官位と云ひ俸祿と云ひ、其の恩既に山嶽よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志これ淺からんや。而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討取り三代將軍の遺蹟を全うすべし。但し院中に參らんと慾する者は、只今申し切るべし。
※『吾妻鏡』承久3年5月19日条より。
【意訳】
皆の者、心一つに聞きなさい。これが最後の言葉です。かつて亡き頼朝公は朝敵を滅ぼし、鎌倉幕府を開いて以来、あなたがたの奉公に、山より高く、海より深く報いて下さった御恩をお忘れではないでしょう。
ところで今、悪しき者どもにたぶらかされた上皇陛下が我らを滅ぼせと命じられましたが、心ある者は早く首謀者である藤原秀康(ふじわらの ひでやす)、三浦胤義(みうらの たねよし)らを討ち取り、源家将軍三代の眠るこの鎌倉を守るのです。
それでも上皇陛下にお味方すると言うのなら、今すぐこの場で申し出なさい……!
かつて公家(貴族)たちから地下人(じげにん)と蔑まれ、犬馬のごとく酷使されてきた武士たちは、頼朝公の挙兵から鎌倉に幕府が開かれ、堂々と生きられるようになった今日までを思い出し、涙せぬ者はなかったと言います。
「尼御台様!我ら、鎌倉殿にお味方申す!」
「そうとも、君側の奸(くんそくのかん。君主の傍にいる悪者)を討たいでか!」
「「「討つべし!討つべし……っ!」」」
日本国(全国の軍勢)をもって、関八州(関東八ヶ国)に対すべし……後世そう恐れられた坂東武者らは政子の言葉に奮い立ち、頼朝公が開かれた「武士の都」を守るべく決戦に臨んだのでした。