明智光秀の敗死にあった最大の誤算。光秀の誘いを断った2人の戦国大名【前編】:2ページ目
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2.筒井順慶(つついじゅんけい)
1549年。大和国(現在の奈良県)に生まれる。当時の大和国は守護不在の混沌とした国であったが、筒井家は一定の勢力を保持していた。1559年。筒井家は大和国に侵攻した松永久秀と対立。順慶は65年に居城である筒井城を追われる屈辱を味わっている。
順慶の前半生は松永久秀との争いの日々だったといえる。66年には筒井城の奪還に成功した順慶だったが、再び奪い返されるなど一進一退の攻防が続いた。
二人の対立の際中、京都では足利義昭を奉じて上洛に成功した織田信長が台頭。1571年には順慶と松永久秀は互いに信長に臣従することとなる。
順慶と明智光秀の関係性がはっきりと確認できるのはこの時期であり、信長に順慶を引き合わせ、松永久秀との和睦を仲介したが光秀であった。1576年には信長から大和国を任され、光秀の与力となった。
順慶の養子である定次の妻・秀子は光秀の娘であり、二人は縁戚関係にあった。
【後編】では、本能寺の変以降の藤孝と順慶の行動を追っていく。
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