戦国時代、67歳の武将・細川幽斎が遺した芸術作品とも言うべき「田辺城の戦い」【中編】:2ページ目
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前代未聞の勅命
幽斎の回答を知った後陽成天皇は、最後の手段に出ます。勅命、つまり正式な天皇の命令として、東西両軍に講和を命じたのです。
実はこの勅命、前代未聞のものでした。この時代の朝廷は武力も経済力もほとんど持っていなかったため
「武士同士の争いには介入せず、勝った方を追認することで権威を保つ」
という方針を採っていました。争っている最中にどちらかに肩入れして敗れれば、諸共に滅ぼされかねなかったからです。
しかし今回は抗争の真っ最中に、しかも一個人の命を救うために勅命を使ったのです。異例中の異例ですが、それほどまでに幽斎が高く評価されていたということでしょう。
これには幽斎、西軍も従い、条件交渉が始まりました。この時点で既に9月。開戦から1か月以上が経過していました。
講和成立
9月13日、ついに講和が成立します。
その条件は
「幽斎は田辺城を出る。しかし田辺城も幽斎の身柄も、西軍にではなく幽斎と親交のあった前田茂勝に個人的に預けるものとする」
というもので、前田茂勝は西軍に属していたため実質的には降伏でしたが
「西軍に攻撃されたからではなく、天皇の命令で城を明け渡した」
という名目を保つものでした。
幽斎が田辺城を明け渡したのはさらに5日後の9月18日。
その3日前の15日には関ケ原において東西両軍の主力が激突し、東軍の勝利が確定していたのでした。絶妙過ぎるタイミングを思えば、幽斎が意図的に引き延ばしたと考えるべきでしょう。
結果的に、田辺城を包囲していた1万5千の西軍は関ヶ原の本戦に間に合いませんでした。
わずか500の兵で1万5千を釘付けにした功績は、小さなものではありません。
幽斎は戦術的には負けたけれど、戦略的にはむしろ勝利したと言って良いでしょう。
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