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江戸時代、大飢饉に襲われた伊予松山藩…ピンチの時にこそ問われるリーダーの真価

江戸時代、大飢饉に襲われた伊予松山藩…ピンチの時にこそ問われるリーダーの真価:2ページ目

受け継がれる義農作兵衛の精神

これだけだと「やれやれ、為政者の中にはロクでもないヤツもいるんだね」で話が終わってしまいますが、伊予松山藩の中にもひとかどの人物はいました。その名は作兵衛(さくべゑ)、筒井村(現:愛媛県松前町)に住む農民です。

作兵衛は貞享五1688年2月10日、貧農であった作平(さくべいorさへい)とツルの息子として生まれました。

「どんな痩せた土地であっても、丹精込めて手入れをすれば、必ずよい田畑となった豊かな実りをもたらしてくれる」

つまり「努力は必ず報われる」という日本人らしい信念を実践していたため、人々から敬慕されていたそうで、やがてタマを妻に迎え、長男・作市(さくいちorさいち)と長女・カメ、次女(名前は不明)の一男二女に恵まれます。

しかし、享保の大飢饉によって田畑は全滅。前年にタマを亡くしていたところへ、作平と作市が相次いで餓死。それでも残された娘たち(ツルはすでに死亡)を食わせるために働き続けた作兵衛も、とうとう倒れてしまいました。

作兵衛を家に担ぎ込んだ村人たちは、彼が大切にとっておいた麦種の俵を見つけ「背に腹は代えられないから、その麦を食べた方がいい」と勧めるものの、作兵衛は承知しません。

「その麦種はみんなに蒔(ま)いてもらおうと貯めたものだ。いま自分が食べてしまったらそれっきりだが、みんながこれを蒔いてくれれば、来年には百倍にも千倍にも増やせる。だからどうか、みんなで命をつないで欲しい」

自分の死期を悟った以上、せめて娘たちや、みんなだけでも生き延びて欲しい。そんな作兵衛の心意気に打たれた村人たちは、どんなにひもじくても決してその麦種には手をつけず、大切に蒔くことで飢饉を乗り切ったのでした。

かくして作兵衛は餓死(享保十七1732年9月23日。享年45歳)。その翌月にはカメ(享年16歳)が、2年後には次女が亡くなったことにより、一家は全滅してしまいます。

この話を聞いた伊予松山藩は筒井村の年貢を減免、また作兵衛の死から45年が経った安永六1777年には第8代藩主・松平定静(さだきよ)は作兵衛の功績を後世に伝えるべく「義農(ぎのう)」と称賛。石碑を建立しました。

更に明治時代に入ると作兵衛を御祭神として祀る義農神社(現:愛媛県松前町)が創建されるなど、彼の心意気を現代に伝えています。

終わりに

古来「上に『政策』あれば、下に『対策』あり」とはよく言ったもので、お上が杜撰な政治をしても、しぶとく生き残りを図るのが、我ら庶民のお約束。

そんな世の中にあって、作兵衛のように命さえ惜しむことなく天下公益を求めた心意気はまさに至純。とても眩しく、少しでも見習いたいものです。

※参考文献:
愛媛県史編さん委員会 編『愛媛県史 近世 上』愛媛県、1986年1月
愛媛子どものための伝記刊行会『愛媛子どものための伝記 第4巻 鍵谷カナ・下見吉十郎・義農作兵衛』愛媛県教育会、1983年10月

 

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