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我が肌は上様だけのもの…徳川家光への男色に殉じた堀田正盛の壮絶な最期

我が肌は上様だけのもの…徳川家光への男色に殉じた堀田正盛の壮絶な最期

上様が愛したこの肌を……家光の死に殉じた正盛

さて、そんな正盛は慶安四1651年4月20日に愛する主君・家光が亡くなると、その日の内に切腹、殉死してしまいました。享年44歳(※誕生日前なので、満年齢+2歳でカウント)。

男色によって出世した者は、主君の死に殉じなければならない……もちろん不文律ですが、ここで命を惜しんだら、待っているのは次期主君による冷遇と、周囲からの迫害ばかり……「二代にわたっていい思いをするなんて許せない」という一種の圧力があったようです。

しかし、正盛は言われるまでもなく、むしろ止められても「後を追う」気満々だったようで、家光の危篤に際してはすぐに腹を切れるよう、万端の準備を整えてありました。

「……しからば」

「うむ」

いよいよ切腹の段となりましたが、正盛は(普通は上半身をはだける)死に装束を脱ごうとしません。

「いかがなされた……上を脱がねば腹が切り難かろう」

まさか、この期に及んで命が惜しくなったのではあるまいな……介錯人(切腹した者が長く苦しまぬよう、斬首してやる役)が内心で嘲笑ったところ、正盛はこう言いました。

この肌は……我が愛する上様(家光)以外の、誰の目にも触れさせとうないのじゃ……このまま(着衣で腹を)切るゆえ、構わず(介錯を)進めよ」

お側へ上がって以来数十年間、上様がこよなく愛し、その指が触れなかったところはないこの肌を、人目に穢すことなく冥土までお届けしたい……その願いは、どこまでも家光への愛情にあふれるものです。

「……相分かった」

かくして愛する家光の後を追った正盛の辞世がこちら。

ゆくかた(行方)は くらくもあらし(暗くも非じ) 時をゑて(得て)
うき世(浮世)の夢の 明ほのゝそら(曙の空)

【意訳】死ぬと言っても怖くはない。あの方のお側へ行けるのだから

さりともと おもふもおなし(思うも同じ) ゆめなれや
たゝことの葉そ(ただ言葉ぞ) かたみ(形見)なるらむ

【意訳】そうは言ってもやはり悲しいが、あの方がくれた愛を頼りにその後を追おう

正盛の墓は江戸の東海寺(現:東京都品川区)にあり、日光の輪王寺(現:栃木県日光市)に眠る家光とは遠く離れているものの、二人の心はきっと通じ合っていることでしょう。

※参考文献:
高野秀行・清水克行『世界の辺境とハードボイルド室町時代』集英社インターナショナル、2015年8月
山下博文『遊びをする将軍・踊る大名』教育出版、2002年6月

 

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