これも戦国女性の定め…相次ぐ悲劇の中、最期まで武田信玄を支え続けた三条夫人:2ページ目
父と子供たちを次々喪い……
「父上……っ!」
不幸の始まりは天文二十1551年。父・三条公頼が周防国(現:山口県東部)の大名・大内義隆(おおうち よしたか)の元へ身を寄せていたところ、その重臣・陶隆房(すえ たかふさ)の謀叛が起こした謀叛に巻き込まれ、命を落としてしまいます。
続く天文二十二1553年には三郎が11歳で夭折、永禄十1567年には嫡男の太郎が謀叛の疑いによって切腹させられてしまいました(享年30歳)。幼い我が子を喪うのは辛いものですが、立派に育て上げ、将来を楽しみにしていた我が子を喪うのも、また違う哀しみと言えるでしょう。
永禄十一1568年には信玄公が駿河国(現:静岡県東部)の今川氏真(いまがわ うじざね)を攻めたことによって武田(甲斐)・北条(相模)・今川(駿河)の三国同盟が破綻。
政略結婚のため(天文二十三1554年から)北条の元へ嫁いでいた長女は、仲睦まじかった夫・北条氏政(ほうじょう うじまさ)と引き裂かれ、永禄十二1569年、傷心の内に亡くなってしまいました(享年27歳)。
相次いで子供たちを喪った三条夫人は、盲目の次男・竜芳と重臣・穴山梅雪(あなやま ばいせつ)に嫁いだ次女の身を案じながらも病魔に侵されていた信玄公を支え続けます。
闘病と陣頭指揮を続ける信玄公に傍近く仕えたため、やがて自身も労咳(肺結核)に感染してしまい、元亀元1570年7月28日、50歳の生涯に幕を下ろしたのでした。
エピローグ
信玄公の死後、跡目を継いだ武田勝頼(かつより。諏訪御料人の子)の代に武田家は滅亡。天正十1582年3月、甲斐国へ乱入した織田信忠(おだ のぶただ。信長の嫡男)らによって出家していた竜芳(次郎)は殺されてしまいます。
次女は徳川家康(とくがわ いえやす)によって身柄を保護され、江戸時代初期の元和八1622年まで生き永らえることができました(夫・穴山梅雪は「本能寺の変」のどさくさで殺されています)。
世に美人薄命と言うように、とかく若くして亡くなった者には同情が集まりがちですが、長く生きればそれだけ辛いことも多いもの。
不幸を比べても意味はないものの、我が子に将来の希望を託して世を去った諏訪御料人よりも、相次いで我が子を失い、将来の希望を絶たれてしまった三条夫人の方が、より深い悲しみを味わっていたように思えてなりません。
そんな三条夫人の墓は円光寺(現:山梨県甲府市)にあり、今も信玄公の遺徳を慕う人々によって供養されています。
※参考文献:
上野晴朗『信玄の妻―円光院三条夫人』新人物往来社、1990年