源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【六】:2ページ目
敗走する平家軍を追撃したい頼朝だが……
そんな治承四1180年10月20日、平家の陣中で異変が発生しました。
「ん、何だか騒がしいな……?」
混乱しているようにも見えますが、なにぶん闇夜でみだりに動くのは危険なので、様子を窺いながら夜明けを待ち、敵陣を探ってみると、もぬけの殻となっています。
「何か策があるようにも見えないが……」
実は昨夜、武田信義の軍勢が夜襲をかけようと平家軍の背後へ回り込もうとしていたところ、うっかり水鳥を驚かせてしまい、驚いた水鳥の群れが一斉に飛び立ちます。
「すわっ、敵襲だぁ!」
慌てふためいた一部の者が逃げ出すと、かねて源氏の大軍に怯みがちだった平家の軍勢は、完全包囲されると思って我先に逃亡。一人の恐怖が十人に伝わり、それがまた百人に伝わり……そして誰もいなくなったのでした。
「ははは!水鳥の羽音に恐れをなして逃げ出しおったわ!」
永年の貴族暮らしですっかり腑抜けてしまった平家など、もはや恐れるには足りない……この大勝利に勢いを得た頼朝は、このまま東海道を驀進して、京都まで攻め上がろうとはしゃいでいます。
「ようし!このまま一気に上洛して、平家一門ことごとく……」
おぅ!……血気盛んな義時もワクワクしましたが、そんな若武者たちに、宿老らが「待った」をかけます。
「お待ち下され……坂東にはまだ常陸国(現:茨城県)の佐竹(さたけ)らも敵対しておりますし、背後を衝かれ、鎌倉を奪われてしまっては元も子もなくなります。まずは坂東の勢力基盤を固め、上洛はそれからでも遅くはございませぬ」
いつの世も、若者はとかく派手なことをしたがるものですが、勢い余って足下をすくわれ、破滅していった者のいかに多いことか……それこそ、かつて坂東に覇を唱えて「新皇」を称したものの、足元の脆弱さゆえに滅ぼされた平将門(たいらの まさかど)のように。
いっときの勢いだけではダメなのです。もしこの進言を聞き入れなければ、頼朝は京都で討死したか、あるいは御家人たちに見放されていたことでしょう。