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軍神「上杉謙信」の後継を巡って争った2人の養子「景勝」と「景虎」の雌雄【後編】

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国外勢力の支援もあり、一時は攻勢に出た景虎勢だったが、9月になると景勝勢が武田家と進めていた和睦交渉が前進。信玄が死亡し、長篠の戦いに敗北して国力を落としていた武田家は、越後妻有城の割譲を条件に景勝側に寝返る。

また、生家である北条家からの援軍も、冬の豪雪によって孤立することを遅れた北条側の判断により撤退。御館に籠る景虎勢は徐々に孤立していく。

年が明けた79年2月。景勝勢は御館に総攻撃を仕掛ける。余力のない景虎勢は、3月に入ると謙信の養父である上杉憲政が、景虎の長男・道満丸と共に景勝側に和睦交渉に向かうが、揃って殺害される。

御館は落城。景虎は御館を脱出して生家である北条家へ逃亡を図る。しかし、途中で立ち寄った鮫ヶ尾城で、城主・堀江宗親に裏切られ、正室の清円院と共に自害した。享年は26とされている。

御館の乱後の上杉家

御家騒動に勝利した景勝は敵対勢力を粛清し、上杉家当主となった。以後、自身の出身家である上田長尾家を中心とした支配体制を確立する。豊臣政権下では五大老に名を連ね、1623年死去。享年69。関ヶ原以降は米沢藩として存続した。

先代の謙信が、「景勝」と「景虎」のどちらを後継者として考えていたかは定かでない。それぞれに様々な学説が存在するが、いまだに不明とされている。

 

 

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