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一緒に手柄を立てたのに(涙)豊臣秀吉の側近「賤ケ岳の七本槍」から洩れてしまった名将たち【上】

一緒に手柄を立てたのに(涙)豊臣秀吉の側近「賤ケ岳の七本槍」から洩れてしまった名将たち【上】

実際、福島正則が「脇坂などと一緒くたに扱われるのは気に入らない」など不満を洩らしたり、加藤清正も「七本槍」と持ち上げられる(揶揄される?)のを嫌がったりしたそうで、秀吉の過剰なまでの喧伝が、当時から冷笑の的であったことがうかがわれます。

(※秀吉の思いとしては、単に「育ての親」として「息子たち」の活躍を誇らしく思うが故の「親バカ」か、自分の手駒に優秀な武将を多く抱え込んでいることのアピールか、あるいはその両方かも知れません)

意外?あの石田三成も賤ケ岳で大活躍していた!

そんな「賤ケ岳の七本槍」ですが、賤ケ岳の合戦で活躍したのは彼ら以外にも、桜井家一(さくらい いえかず)や石川一光(いしかわ かずみつ)、一柳直盛(ひとつやなぎ なおもり)に大谷吉継(おおたに よしつぐ)、そして意外なことに石田三成(いしだ みつなり)も名前を連ねています。

軍略に疎く、槍働きよりも算盤勘定に長けたことで出世した「文弱の徒」というイメージの強い三成ですが、決して軟弱な訳ではなく、人を使ったり軍勢を率いたりする器用さに欠けていただけなのかも知れません。

七本槍に負けず劣らず武勲を立てた彼らの中から、興味深いエピソードを紹介して行きたいと思います。

【下】へ続く

参考文献:
池上裕子ら編『クロニック戦国全史』講談社、1995年12月
高柳光寿ら『戦国人名辞典』吉川弘文館、1973年7月
白川亨『石田三成とその一族』新人物往来社、1997年12月

 

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