400年前、仙台城下に張られた”六芒星の結界”は今も生きているのか?その2:3ページ目
榴岡天満宮 1667
三代藩主綱宗公により建立。昭和30年代までは「天神社」と呼んでいました。菅原道真公を祀っています。
六芒星の中では一番最後に建てられましたが、この場所の歴史は古く、城下建設の際にはすでにポイントを押さえていたと考えられます。この一帯は陸奥国分寺の領地で、1189年、源頼朝が奥州藤原氏を攻めたときに、藤原泰衡が館を築き防御しました。防衛施設を置くには最適な見通しでしたが、現代は高層ビル群が周りを囲み、その高さを感じることができません。
天神社はもともと現仙台東照宮の場所(玉手埼)にありました。玉手埼に東照宮を建てるために一旦東側に移され、のちに榴ヶ岡の地に遷座しました。
隣には、桜で有名な榴ヶ岡公園があります。*地名は榴ヶ岡、神社名は榴岡(ケが入らない)
仙台東照宮 1654
二代藩主忠宗公により建立。三代将軍徳川家光公の許可を得て、日光東照宮から分霊した徳川家康公が祀られています。
政宗が秀吉の命令で米沢から岩出山に移ることになったとき、岩出山の城を築いたのが家康です。家康が葛西大崎一揆の視察を終えた帰り、この場所(玉手埼)で休憩したという記録から、幕府へ選定理由として伝えました。
玉手埼には、国分氏の時代から天神社がありましたが、青葉山にあった国分氏の城からみて、正確な鬼門方位に当たります。このときすでに、青葉山、玉手埼、榴ヶ岡の3地点は六芒星を描く土台として存在していたのです。
仙台城の正式な鬼門は、定禅寺を筆頭とする寺社群で、その一角だけが町割りに逆らって城を向いているのがわかります。しかしその先には仙台東照宮があり、六芒星全体で見ると、15度の傾きがなければ、鬼門を置くことができなかった、ということになります。
仙台藩にしてみれば、このことを幕府に知られてはならない”最高軍事機密”だったかもしれません。鬼門は、東北から鬼が入ってこないように、鬼より怖い門番を立てるのですから、その役目を家康公にしたと幕府にばれたら、伊達家の存亡にかかわります。だから、三代に渡り時間をかけて六芒星を完成させたのではないだろうか。
400年の時を超えて、日の目をみることになったわけですが、東日本大震災の際には「結界ははずれた」または「結界に守られた」など内輪で二分しましたが、真相はだれにもわからない。
【その3へつづく】
参考:星の街仙台