ラスボス感ハンパない!色んな意味で強かった?毛利元就の愛娘・五龍姫の生涯:2ページ目
龍のように激しかった?一族の繁栄に貢献するも……
さて、五龍姫と宍戸隆家との夫婦仲は良好だったようで、二人の間には一男三女が生まれました。
まず長男の弥三郎元秀(もとひで。弥三郎は代々襲名)は宍戸家の跡取りとして確保、長女は伊予水軍の棟梁・河野通宣(こうの みちのぶ)に嫁がせることで瀬戸内海に勢力基盤を作り、次女は毛利家を支える吉川元長(きっかわ もとなが。元就の孫)に、三女は宗家の毛利輝元(てるもと。元就の孫)に嫁がせることで、毛利一族の血縁強化に大きく貢献しています。
しかし、残念ながら元秀は病弱だったため廃嫡(はいちゃく。家督の継承権を剥奪)されてしまい、後に隆家が天正二十1592年に亡くなった時は、元秀の嫡男・宍戸元続(もとつぐ)が家督を継承しました。
子沢山だった以外にあまり詳しい記録が残っていない五龍姫ですが、そんな彼女の人柄や日ごろの振る舞いについて推測される、こんなエピソードが残されています。
時は元亀二1571年、死の床についていた父・元就が息子たちに対して「五もじ(五龍姫)は女のことゆえ、分別に欠けるところもあろうが、婿殿(隆家)ともども、妹弟と思って大切にしてやってほしい」といった旨を遺言。
このとき元就は75歳、五龍姫は43歳。いくら可愛い娘と言っても、既に立派な大人どころか、当時であれば初老の域に差しかかる年頃……よほど心配だった(女性である、という偏見を差し引いても、分別のなさが目に余った?)のでしょう。
婿の隆家にも気を遣っているところを見ると「ウチの娘がすみません」と思ってしまうような、気性の激しい嫁だったのかも知れません。
かつては「花よ、蝶よ」と育てられた姫が、嫁いでからは「龍よ、龍よ」と呼ばれる内、次第に龍のような激しさを備えていった……のだとしたら、まさに「名は体を表す」通り(レッテル効果)と言えるでしょう。
(※それで親族たちはあえて「龍」の字を避けて「五もじ」と呼んだのかも知れませんね)