武士道のバイブル『葉隠』が説く、恋愛にも通じる「究極の忠義」とは?:2ページ目
2ページ目: 1 2
一方、諫言とは常に主君の「逆鱗に触れる」「感情を逆撫でする」リスクを含んでおり、内容やご機嫌次第では罰せられかねない……下手をすれば命どころか名誉まで奪われかねない、ハイリスクノーリターンと言えます。
しかも我が身に受ける苦しみや辱しめは、あくまで「自分の落ち度」として受け止めねばならず、罰せられ損と言えば、これ以上の損はありません。
※もしもここで少しでも弁明すれば、諫言を聞き入れない「主君が暗愚である」と示してしまう事になります。
そこで多くの武士が「事なかれ主義のイエスマン」に堕してしまうのですが、それでも私(私情、私欲、私益)を殺して公益を追求する諫言こそが究極の忠義であり、奉公の真髄であると『葉隠』は訴えているのです。
「恋死なん のちの煙に それと知れ……」恋愛にも通じる至純の忠義
日ごろ一生懸命に働き、戦場で武功を求めるのは、主君のためであると共に「自分のため、一族のため」という私欲も内在しています。
それも悪くはありませんが、あくまで公益ひいては主君のためになるなら、時として主君の耳に痛いことも諫言し、聞き容れられなければ、どんな処分も甘んじて受けよう……そんな自分の立場や利益を度外視する姿は、ある意味で恋愛にも通じます。
「恋(こひ)死なん のちの煙に それと知れ
つひ(終)にもらさぬ 中の思ひを」【意訳】私が死んだら、火葬の煙に(生涯告白しなかった)あなたへの想いを察して欲しい。
……報われるばかりが想いではない。実るばかりが恋ではない。それでも一途に相手を想い、私情よりも相手の幸せを最優先に願うひたむきな姿は、『葉隠』が理想とした武士道精神の片鱗を、現代に伝えているのかも知れません。
※参考文献:
菅野覚明『武士道の逆襲』講談社現代新書、2017年12月19日 第7刷
ページ: 1 2