最古の日の丸!本物の風林火山!甲府の武田信玄ゆかりの地をめぐったら凄いものばかりだった:2ページ目
「心頭滅却すれば…」で知られる、信長が焼き討ちにした実在の僧とは
同じく山梨県の塩山には、武田信玄の菩提寺である恵林寺があります。前述した雲峰寺と同じく禅宗である臨済宗の寺で、質実剛健な印象を受ける寺です。
ここは織田信長が焼き討ちした寺の一つで、快川国師という人物が燃えさかる山門に立てこもり「心頭滅却すれば、火も自ずから涼し」と言い残したという逸話の舞台になった場所です。
快川国師は美濃(現岐阜県)出身の僧で、崇福寺という寺で修行を重ね、若い頃から秀才として知られていました。信玄に請われて恵林寺住職になるも一度崇福寺へ戻りますが、永禄七年(1564年)に再び信玄が恵林寺の住職にと請うほどの人物でした。二人の親交は深く、国師は精神的な支柱として信玄を支えたようです。
信玄は生前から恵林寺を廟所と定めており、天正4年(1576年)に亡くなったのち、国司が葬儀を執り行う大導師を務めています。国師は信玄亡きあと武田勝頼の師としても武田家を支えますが、それも空しく天正10年(1582年)、甲斐武田家が滅亡。
山梨に侵入してきた織田信長の軍勢は恵林寺を取り囲み、恵林寺に身を寄せていた兵や僧を問わず百名近くを山門の楼閣に押し込めて、焼き殺したといいます。
もちろん当時の山門は焼失したため、現在の山門は後に建て直されたものですが、三門には快川和尚の遺偈(ゆいげ=禅僧が末期の際に弟子に伝える詩句)が掲げられています。
宝物館にはいまわの際に弟子に渡したと伝わる焦げた法衣の一部も納められており、生々しさが伝わります。その法衣を預かった僧はいったんは秩父山中に逃げたそうです。
徳川家康は将軍になった後に、武田家ゆかりの寺社を手厚く保護しています。今でも有名な伝説を、身近に感じることができる遺物が残されているのもそのおかげかもしれません。
武田信玄の墓所は月命日のときのみ公開され、明王殿には「武田不動」として有名な、武田信玄を写したという等身大の不動明王が安置されており、山門以外も見所がたっぷりある寺です。戦国の息吹を感じに訪れてみてはいかがでしょうか。