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姓が”おだ”でもここまで違う!戦国最弱でありながらも戦国時代を生き延びた「小田氏治」の軌跡

姓が”おだ”でもここまで違う!戦国最弱でありながらも戦国時代を生き延びた「小田氏治」の軌跡

何故か人望だけは有った氏治

9回も居城を奪われた戦がとことん苦手な氏治ですが、意外なことに人望はありました。ここまで戦が下手だと当然のことながら愛想を尽かしてしまうもの。

しかし、当時土浦城城主だった菅谷勝貞・政貞(すげのや-かつさだ・まささだ)親子などの家臣団や領民から氏治は絶大な信頼を得ていました

家臣団に至っては氏治に代わって小田城の奪還もしてしまうくらい武勇に優れた者もいました

また領民も小田城を氏治以外が治めていると領民たちは姿を隠してしまい、氏治が小田城を奪還し戻ってくると領民も戻ってくるほどです。

これほどまでに信頼されている所を見ると氏治には不思議と人を惹きつける魅力と仁徳があったと言わざるをえないですね。

豊臣秀吉の天下統一の裏で起きていた氏治の野望

元亀4年(1573)に小田城を奪われて27年経った天正18年(1590)、氏治は小田城奪還のための佐竹家が治める小田城へ兵を率いて向かいました(樋ノ口の戦い)。

この年は豊臣秀吉による小田原攻めが行われた年ですが、なんと氏治は小田城攻めを敢行していたのです。

氏治率いる小田軍は優勢に戦を進めていましたが、援軍に現れた太田資正により氏治は小田城を奪還できずに撤退を余儀なくされました。

そして、氏治は小田原攻めに参陣しなかったことと豊臣に臣従していた佐竹家を攻撃したことのお咎めということで全ての領地を没収されてしまい、小田家は氏治の代で滅亡してしまいます

その後氏治は娘が結城秀康に嫁いでいた縁で秀康に仕えます。そして、慶長6年(1601)に亡くなりました。

最後に

最後まで小田城のために尽くした人生でしたが、氏治は関ヶ原の戦いまで生き延びています。

上杉謙信や太田資正など氏治と敵対した戦国武将たちが早々と亡くなっていく中、ここまで生き延びたのは、先祖代々が治めてきた小田城を守りたい執着心がそうさせたのかと思います。

最終的に小田城は奪還できませんでしたが、信頼のおける家臣団と領民が最後まで残ったことが氏治にとって最高の宝だと思いますね。

参考:長谷川ヨシテル『ポンコツ武将列伝』

 

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