戦国時代〜江戸時代、城下町「川越」は為政者たちにどれほど重要視されていたのか?:2ページ目
2ページ目: 1 2
また、現在の喜多院の多くの施設は寛永16(1639)年につくられたものですが、これらは前年1月の川越大火により、山門を除き焼失してしまった堂宇を再建したものです。当時の江戸幕府の将軍は、徳川家光でしたが、家光は喜多院を再建するにあたって、江戸城紅葉山にあった慶長期の建物を解体して川越に移築しました。
現在の喜多院の境内にある庫裏、書院、客殿は、そのとき江戸から新河岸川を伝って運び込んだものです。このときに現在、客殿にある徳川家光誕生の間といわれている十二畳半の部屋も移築されました。焼失から再建までのこのスピード感、家光がいかにこの寺院を大切に考えていたかということがわかります。
川越が為政者たちによって重要視されていた理由のひとつに、水運の便の良さがあります。この地域は、荒川沿岸を押さえる要所だったのです。川越の町の発展を考えるとき、新河岸川の水運のことは切り離して考えることができないのです。
参考
- 『川崎大師喜多院』「創建と歴史」
- 川越八幡宮公式サイト『ようこそ川越へ』「日本三大東照宮」
- 『日本地図から歴史を読む方法―都市・街道・港・城跡…意外な日本史が見えてくる』武光 誠(1998 KAWADE夢新書)
ページ: 1 2