「東洋のガラパゴス」小笠原諸島を大発見した戦国武将とその子孫のエピソード【後編】:2ページ目
それでもめげずに再渡航に向けて資金調達に励んでいた宮内ですが、享保二十1735年になって南町奉行所が渡航許可を取り消し。宮内は詐欺罪に問われて財産没収、重追放の刑が下されたのでした。
一度は聞き入れられた訴えが退けられた決定打は、宮内が証拠として提出した『巽無人島記』の記述。貞頼が発見したとされる無人島には延宝三1675年に幕府が調査団を派遣しており、その報告と内容が大きく異なる(父島の面積や、亜熱帯地域ではありえないオットセイの棲息など)ため、『巽無人島記』は宮内が捏造した偽書と断定。
また、南町奉行所は小倉藩主(現:福岡県北九州市)となっていた小笠原宗家に「小笠原宮内という者をご存じか」と確認したところ、面倒ごと(詐欺の連座)を懸念した小笠原宗家からも見放されてしまいました。
しかし、訴えが認められないのは仕方ないとしても、無人島に関する幕府の報告書を引っ張り出して照合するのに7年もかかるというのは、さすがにお役所仕事というか、一度は下りた渡航許可に勇躍出航していった甥っ子の長晁が不憫でなりません。
エピローグ
この一連の騒動が世に広まると、それまで無人島(ぶにんじま)と呼ばれていた島々がいつしか「小笠原諸島」と呼ばれるようになり、祖先の名前を残すことができた宮内の訴えは、決して無駄にはなりませんでした。
また、小笠原諸島の父島には発見者と伝えられる貞頼を祀った「小笠原神社」が創建され、敗戦・占領期に米軍によって破壊されたものの、返還後に再建。
今でも毎年7月26日、かつて貞頼が小笠原諸島を発見したとされる日に例大祭が執り行われ、その遺徳が偲ばれています。
もし小笠原諸島を訪れることがあったら、まだ見ぬ新天地を夢見て大海原に旅立った小笠原一族の雄志に思いを馳せたいものです。
※参考文献:
坂田諸遠編『小笠原諸島紀事』国立国会図書館デジタルコレクション、明治時代
田畑道夫『小笠原島ゆかりの人々』文献出版、1993年2月