方言は悪いことば?かつて鎌倉で行われた言葉狩り「ネ・サ・ヨ運動」の黒歴史を紹介:2ページ目
新旧住民のカルチャーギャップ
鎌倉は幕府が滅亡した後も東国の要衝として重視されてきましたが、やがて江戸時代に入ると将軍様(江戸)の喉元に刃を突きつけるような軍事≒叛乱拠点があってはたまらないとばかりに放置され、半農半漁の寒村として寂れていきました。
そんな鎌倉が再び脚光を浴びるようになったのは明治時代以降、都心からのアクセスの良さと風光明媚で過ごしやすい自然環境が東京都民の別荘地として注目されたためです。
この頃から、鎌倉の土着民と別荘民との確執(カルチャーギャップ)が生まれたようで、大東亜戦争末期(昭和十九1944~二十1945年ごろ)には度重なる空襲から逃れてきた疎開者が、帰る家が焼けたこともあってそのまま定住することも多かったそうです。
そして昭和三十年代に入ると「昭和の鎌倉攻め」とも称された大規模な宅地乱開発が強行され、土着民を包囲していくかのように山野が切り崩されて大量の移住者が流入。それまで明治~敗戦期とは比べものにならないほど言葉や文化の軋轢を生みだしました。
とりわけ古くから漁業が盛んな腰越(こしげぇ。こしごえ)地区は、多くの危険が伴う海上での漁労生活に根づいた短く早口で語調の強い言葉が色濃く、それを「野蛮」と忌み嫌った移住民たちによる方言「改善」運動が始まったのでした。