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決死の作戦と兄弟愛!天下一の強弓・源為朝が唯一倒せなかった大庭景義の武勇伝【上】

決死の作戦と兄弟愛!天下一の強弓・源為朝が唯一倒せなかった大庭景義の武勇伝【上】

鎌倉一族の名誉を賭けて!

さて、白河殿へ突入した平太と三郎は、その音声(おんじょう)も高らかに名乗りを上げます。

「音にも聞食(きこしめす)らん。昔、八幡殿(はちまんどの)の後三年の軍(いくさ)に、金沢(かねざわ)の城(じょう)責(せめ)られしに、鳥海(とりのうみ)の館(たて)落させ給(たまい)ける時、生年(しょうねん)十六歳にて、軍(いくさ)の前に立(たち)て、左(※3)の眼(まなこ)を射られ乍(ながら)答(とう)の矢を射て敵(かたき)を打取(うちとり)て、名を後代に留(とどめ)たる鎌倉の権五郎景政(ごんごろうかげまさ)が五代(※4)の末葉(まつよう)に、相模国(さがみのくに)の住人大庭平太景義、同(おなじく)三郎景親」

※『保元物語』白河殿攻メ落ス事 より

ここで言及されている八幡殿とは八幡太郎こと源義家(みなもとの よしいえ)を指し、その家人(けにん)として世に言う「後三年の役(永保三1083年~寛治元1087年)」に従軍、武功を挙げた鎌倉権五郎こと平景政(たいらの かげまさ)の子孫(末葉)である、と名乗っています。

このように、往時の武士たちは代々の家名(一族の名誉)を背負い、祖先や子孫たちに恥じぬ戦いや生き方を心がけたものでした。

ちなみに敵将の為朝は八幡太郎の子孫に当たり、かつて主従であった者の子孫同士が敵味方として戦場に相対することとなっています。

もっとも、平太と三郎が従っている義朝は為朝の兄であり、こちらも八幡太郎の子孫です。

ともあれ為朝は、平太と三郎が相模国の住人と聞いて、

「ほう……音に聞こえし坂東武者との手合わせはこれが初めて……そうじゃ、彼奴(きゃつ)らを引目(ひきめ)の矢で驚かしてやろう」

引目とはいわゆる鏑矢(かぶらや)で、朴(ほお)や桐材を蕪(かぶら)のような球形に削り出し、中を空洞に刳(く)り抜いた側面に穴(目)を穿ったもの(鏑・かぶら)を矢の先端につけることで、射放つと目から風が入って高い音を響かせるため、響目(ひびきめ)が転じて引目、蟇目などと呼ばれました。

通常であればこの引目は先端に鏃(やじり)をつけず、単に音だけ響かせて合図などに用いるのですが、為朝は引目の先に大雁股(おおかりまた。外側に反ったU字形)の鏃を取りつけて、恐ろしい音と殺傷能力を誇示しようと考えたのです。

「……そこにおわすは鎮西八郎と見た。いざ尋常に、勝負!」

「おう、望むところよ!」

三郎と二手に分かれた平太は鞭声颯爽と馬を励まし、強敵・為朝へと挑みかかったのでした。

(※3)通説では右眼となっていますが、ここでは『保元物語』の記述に従っています。
(※4)諸説あり。

【中編はこちら】

※参考文献:

栃木孝惟ら校注『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』岩波書店、1992年7月30日
貴志正造 訳注『全譯 吾妻鏡 第二巻』新人物往来社、昭和五十四1979年10月20日 第四刷

 

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