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首級は本当に飛んだのか?日本三大怨霊のひとつ、平将門「怨霊伝説」の元ネタを紹介【前編】

首級は本当に飛んだのか?日本三大怨霊のひとつ、平将門「怨霊伝説」の元ネタを紹介【前編】

無念!再会できなかった将門の首級と胴体

さて、そんな非業の死を遂げた将門ですが、王道楽土の大望が志半ばに潰えた無念こそ将門が怨霊となった原因であり、将門の怒りを鎮めるために祀られたのが、東京都千代田区・大手町にある将門塚(しょうもんづか)と、同じく神田に鎮座する神田明神(かんだみょうじん)と言われています。

しかし、将門が死んだのは下総国豊田郡なのに、どうして東京都に祀られているのでしょうか。これまでその理由については定説がなく、今なお明確ではないようですが、その内の一説をざっくり紹介します。

下総国豊田郡で討死した将門の首級は京都に送られ、獄門(斬首した罪人の首級を晒す刑罰)にかけられますが、なんと将門の首級はまだ死んでおらず、かっと眼を見開き、無念の思いをブツブツと口にし続けていたそうです。

やがて将門は切り離された胴体とつながり、宿敵らに再戦を挑もうと念力を発し、宙に浮き上がったかと思ったら、坂東の方角に向かって飛んでいきました。

「……我が躯(むくろ)や何処(いづこ)……いま再びつながりて、怨敵らと一軍(ひといくさ)せん……!」

そんな凄まじい将門の執念が京から坂東に届いたか、下総国豊田郡に打ち捨てられたままとなっていた将門の胴体も、やがてびくびくと動き出し、ついに首がないまま立ち上がって歩き出したのでした。

「……我が首(こうべ)や何処(いづこ)……いま再びつながりて、怨敵らに一矢(いっし)報いてくりょうぞ……!」

もしも胴体に口があれば、きっとそう言ったことでしょう。かくして京都から坂東へと首級が飛び、坂東から京都へと胴体が歩き、互いに自分との再会を願い、必死に先を急いだのでした。

しかし、首級と胴体は再会することなくすれ違い、とうとう念霊(ねんりょう)が切れた将門の首級は墜落、そのまま死んでしまいました。

一方の胴体も首級からの念霊補給?が切れたことで力尽き、そのまま倒れ込んだそうで、首級が墜落した場所が現代の「将門塚」、胴体の倒れた場所が「からだ明神」、なまって「神田明神」として祀られ、将門の怨霊を慰め、鎮めることとなったそうです。

お互いほぼ同じ東京都千代田区まで来ていたというのに、あとちょっとのすれ違いで宿願を逸したその無念は、察するに余りあります。

【後編に続く】

※参考文献:
乃至政彦『平将門と天慶の乱』講談社現代新書、平成三十一2019年4月10日
浅井了意『江戸名所記』改造社、昭和十五1940年12月7日
矢代和夫『北条五代記 日本合戦騒動叢書』勉誠出版、平成十一1999年5月1日
上杉孝良『三浦一族 その興亡の歴史』三浦市教育委員会、平成十九2007年3月

 

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