優しさが命取り!新選組の中で唯一、女性問題で切腹した組長がいた!:2ページ目
呼び名は今弁慶
壬生浪士組が結成されて程なくして長州藩を筆頭とした攘夷派閥を京都から追放した八月十八日の政変が起こります。
忠司も壬生浪士組の一員としてこの事件に出動します。その時のいで立ちが坊主頭に白い鉢巻きで大薙刀を構えていたので「今弁慶」と呼ばれていました。
このような格好しているので見た目的に怖そうなイメージがあると思いますが、「親切者は山南と松原」の言葉が残っているくらい温厚な性格でした。
八月十八日の政変の際に山南敬助が自分の鎧がないことに対して怒っている時に忠司が宥めたという話があるくらい非常に温厚な人物でした。
その後の元治元年(1864)の池田屋事件では土方歳三の隊に所属し武功を挙げました。続く禁門の変では天王山に潜伏する長州勢の追討を行うため、天王山攻略に随行しました。
数々の戦いで実力を見せた忠司は慶応元年(1865)3月の西本願寺移転による隊編成で4番隊組長と柔術師範頭に任命されました。