差別や偏見と闘い日米親善・世界平和に奔走した人生!笠井重治はかく語りき【前編】:2ページ目
そして明治三十六1903年に17歳で甲府中学校を卒業した重治は、人生の岐路に立つことになります。
当時、日本は日清戦争(明治二十七~八1894~95年)の勝利で獲得した満洲の遼東半島をロシアらの圧力(三国干渉)によって返還させられ、何もできなかった悔しさから「ロシア、討つべし!臥薪嘗胆!(※1)」とリベンジに燃えていました。
17歳の健康な青年であれば、真っ先駆けて軍人に志願し、お国のため、打倒ロシアに立ち上がることが評価された時代です(実際、翌明治三十七1904年に日露戦争が勃発しました)。
しかし、重治はもっと学問がしたかったのです。目の前のロシアと戦うことがお国のためなら、学問で身を立てることもまた、間違いなくお国のため。
欧米文化をよく学び、諸外国の情勢に通じることで、日本の有り様が、そして日本人の目指すべき未来が見えてくる。
そう確信した重治は、その年の8月にアメリカ・シアトルへと旅立ったのでした。
(※1)がしんしょうたん。固い薪(たきぎ)の上で臥し(寝)て身体を痛めつけ、苦い胆(鹿の胆臓。漢方薬)を嘗めることで、悔しさを忘れずリベンジを目指すこと。